2013年08月20日
水を求めてドライブ
私事になりますが、ワタクシのオカミサンは出産準備のため、現在実家に帰っています。
お盆休みのある日、ひとりで家にいるのも寂しくて、それに毎日毎日暑いし、水を求めて遠出してみました。
鹿児島市内の家を出る頃にはすでにカンカン照り。
エアコンも効きが悪い中、クルマで出発。
まずは、旧郡山町を抜けて、国道328号線を薩摩川内方面へ。
入来峠のすぐ手前を左折して、「甲突池」の道しるべをたよりに走ることしばし。

甲突川源流の甲突池。
周囲はこんな棚田が広がるところ。

いや~、涼しい!
甲突池は、この棚田に水を引くために、周囲の清水を集めて造られた池なのだそうです。
もっとのんびりしたいのですが、またクルマを走らせて、入来峠を越えて薩摩川内市へ。
そしてさらに、川内川沿いをさつま町へ。
県道404号線を川の上流へと走っていくと、鶴田ダムが現れます。
治水と発電を目的に、1965年(昭和40年)に完成した、九州最大規模の重力式ダムです。

しかし再開発工事中。
工事が終わると、貯水量は1.3倍に増えるそうです。
途中いくつもの橋を渡りながら、さらに上流に向かうと・・・

・・・なんと、野生の鹿と出会いました!
上流に向かうにつれて、左に見るダム湖はだんだんと細くなってきて、やがて川のようになるあたりに、レンガ造りの遺構があります。

1909年(明治42年)に建設され、1964年(昭和39年)に鶴田ダムの完成により役目を終えた、旧曽木発電所跡。
現存する、鹿児島県唯一の明治時代のレンガ造り建築とも言われています。
明治~昭和時代の実業家・野口遵によってこの発電所は造られました。
ここから送られた電気を利用して、熊本の水俣でカーバイド工業が始まりました。
これが後に日本15大財閥に数えられる日窒コンツェルンの第一歩になったのです。
日窒コンツェルンは戦後、GHQの財閥解体により解散し、現在はJNC、積水化学、旭化成、信越化学、センコーなどとして残っています。
ただ、JNCは戦後の高度成長期に水俣病を引き起こした負の歴史もありますが・・・。
ここに発電所を建設するヒントになったと言われているのが、そのすぐ上流にある曽木の滝の水量と落差。

言わずと知れた、東洋のナイアガラ。
日差しは痛いほどですが、水のある光景というのは、心には涼しく感じられて良いですねぇ~。
曽木の滝のすぐそばに、旧曽木発電所の取水堰の跡が残っています。

この取水堰、今年(2013年)完成した小水力発電の新曽木発電所取水堰として再利用されています。
また、滝の近くには、旧曽木発電所の水路の跡であるトンネルも残っています。

トンネルの中に入ったとたん、ヒヤッとした冷気に包まれて、気持ちが良かった~。
しかし・・・相変わらずの快晴。
ここで一雨ほしいところ・・・と思いながら曽木の滝を後にして、快適な農免道路を抜けて、栗野へ。
旧栗野町は、となりの吉松町と合併して、湧水町となりましたが、その由来が、豊富な水。
栗野駅のすぐ裏にある、丸池水源。

1日6万トンの水が湧き出すこの池は、この辺り一帯の水道原水でもあり、農業用水源でもあります。
さて、ここにきて、栗野岳のあたりに黒い雲が湧いてきて、雷も鳴りだしました。
そして・・・栗野を離れて鹿児島に帰る途中、横川のあたりで夕立に出会いました。

長い距離を走ってきたクルマも、これでリフレッシュできたでしょうか?
いいドライブでした。
当ブログの目次・新着情報は→コチラ
お盆休みのある日、ひとりで家にいるのも寂しくて、それに毎日毎日暑いし、水を求めて遠出してみました。
鹿児島市内の家を出る頃にはすでにカンカン照り。
エアコンも効きが悪い中、クルマで出発。
まずは、旧郡山町を抜けて、国道328号線を薩摩川内方面へ。
入来峠のすぐ手前を左折して、「甲突池」の道しるべをたよりに走ることしばし。
甲突川源流の甲突池。
周囲はこんな棚田が広がるところ。
いや~、涼しい!
甲突池は、この棚田に水を引くために、周囲の清水を集めて造られた池なのだそうです。
もっとのんびりしたいのですが、またクルマを走らせて、入来峠を越えて薩摩川内市へ。
そしてさらに、川内川沿いをさつま町へ。
県道404号線を川の上流へと走っていくと、鶴田ダムが現れます。
治水と発電を目的に、1965年(昭和40年)に完成した、九州最大規模の重力式ダムです。
しかし再開発工事中。
工事が終わると、貯水量は1.3倍に増えるそうです。
途中いくつもの橋を渡りながら、さらに上流に向かうと・・・
・・・なんと、野生の鹿と出会いました!
上流に向かうにつれて、左に見るダム湖はだんだんと細くなってきて、やがて川のようになるあたりに、レンガ造りの遺構があります。
1909年(明治42年)に建設され、1964年(昭和39年)に鶴田ダムの完成により役目を終えた、旧曽木発電所跡。
現存する、鹿児島県唯一の明治時代のレンガ造り建築とも言われています。
明治~昭和時代の実業家・野口遵によってこの発電所は造られました。
ここから送られた電気を利用して、熊本の水俣でカーバイド工業が始まりました。
これが後に日本15大財閥に数えられる日窒コンツェルンの第一歩になったのです。
日窒コンツェルンは戦後、GHQの財閥解体により解散し、現在はJNC、積水化学、旭化成、信越化学、センコーなどとして残っています。
ただ、JNCは戦後の高度成長期に水俣病を引き起こした負の歴史もありますが・・・。
ここに発電所を建設するヒントになったと言われているのが、そのすぐ上流にある曽木の滝の水量と落差。
言わずと知れた、東洋のナイアガラ。
日差しは痛いほどですが、水のある光景というのは、心には涼しく感じられて良いですねぇ~。
曽木の滝のすぐそばに、旧曽木発電所の取水堰の跡が残っています。
この取水堰、今年(2013年)完成した小水力発電の新曽木発電所取水堰として再利用されています。
また、滝の近くには、旧曽木発電所の水路の跡であるトンネルも残っています。
トンネルの中に入ったとたん、ヒヤッとした冷気に包まれて、気持ちが良かった~。
しかし・・・相変わらずの快晴。
ここで一雨ほしいところ・・・と思いながら曽木の滝を後にして、快適な農免道路を抜けて、栗野へ。
旧栗野町は、となりの吉松町と合併して、湧水町となりましたが、その由来が、豊富な水。
栗野駅のすぐ裏にある、丸池水源。
1日6万トンの水が湧き出すこの池は、この辺り一帯の水道原水でもあり、農業用水源でもあります。
さて、ここにきて、栗野岳のあたりに黒い雲が湧いてきて、雷も鳴りだしました。
そして・・・栗野を離れて鹿児島に帰る途中、横川のあたりで夕立に出会いました。
長い距離を走ってきたクルマも、これでリフレッシュできたでしょうか?
いいドライブでした。
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2013年06月13日
田上川を源流部から河口まで歩く
ワタクシは、歩くのが大好きです。
で、この間、休日出勤の代休を取って、歩いてきました。
今回は、タイトルにもあるように、田上川(新川)の源流部から河口まで歩いてみました。
出発は、山形屋バスセンター発、伊集院行きのバス。
国道3号、犬迫を経由して、横井まで。

武岡から伊集院へ向かう街道沿いの、酒屋さんの脇から下りていきます。
田上川は松元の仁田尾あたりが源流なのですが、地図で見ると仁田尾から川までは道らしい道がなさそうなので、こちらからのアプローチを選びました。

途中、横井の埋め立て処分場の間の道を行きます。

萩別府という小さな集落を通り過ぎ・・・

シラスの斜面を切り開いて作られた急な下り坂を抜けて・・・

田植え真っ盛りの盆地のような谷へ。

田上川もこの辺りでは透明で小さいせせらぎ。

川に沿って、谷底の小さい道を下っていきます。
途中、滝の音が聞こえました。

そして、ふたたび棚田の谷に出ました。
ここが、西之谷。

橋のたもとに、ペンキがはがれかけた標柱。
ここが、県が管理する「2級河川」としての「新川」の起点。

川に沿って、のどかな田園風景が続きます。

道ばたには、まきを積んだ小屋があったり。

川もだいぶ大きくなりました。

途中で景色は一変。
西之谷ダムです。

別にカラ梅雨で干上がっているわけではなくて、洪水の時だけ水が貯まる、洪水調節専用ダムなのです。

ダムを前から見ると、底のほうに開いた穴から、川の流れが出てきています。

鹿児島市街と松元を結ぶ県道に出会う頃、このような牧歌的な風景とはお別れです。

池田学園方面から流れてくる支流と合流する辺り。
ワタクシが小学生だったころは、この辺も田んぼが広がっていたのですが・・・。
住宅が建てこんできたり、南九州道の高架が走ったりして、風景はだいぶ変わりました。

高架下は、市内で回収された放置自転車の墓場みたいな様子。

大きめの堰のそばに、今も水神様が。

大峯橋。
30年くらい前まではこの辺りも田んぼで、川に下りてメダカを捕った思い出もあります。
サラヤという、おむすび屋さんの売店が、ロードサイドにあったのも遠い記憶。

どんどん川沿いに歩いていって、昼どきになり、お腹もすいたので、替玉屋でチャーシュー麺。
もちろん、替え玉も。

左は、田上小学校。
ワタクシは、その裏手にあるひばり幼稚園の卒園生です。
ところで。
江戸時代、田上川の中流から下流にかけては、今より北側を流れていたそうです。
それを、鹿児島城下の洪水を防ぐために、途中から南側に新しい川を掘って、それを「新川」としたそうです。
田上川の元の流れは、現在の荒田川だとか。
どこからが新しい川か、調べていないのでわかりませんが、

田上橋のちょっと下流。
周辺を観察してみると、この辺りから地形が何やら不自然になってきます。
川よりも周囲が低い、いわゆる「天井川」のようになり、そして、川の北側に、微妙にくぼんだ地形が並び、そして川から離れていくようにも見えます。
ひょっとしたら、この辺りが新しい人工の川と、もとの田上川との分かれ目かもしれません。

上流の西之谷ダムとセットの形で、洪水を防止するために川幅を広げる工事が続いています。

唐湊まで来ました。
セイカのアイスクリーム工場。
ワタクシは、小学校の社会科見学で来たことがあります。
お土産がアイスではなく、ボンタンアメでがっかりした思い出が・・・。

実は日本有数の綿工場、カクイの本社工場。
全国で「カクイわた」のホーロー看板を見かけます。
化粧用のコットンでは全国のシェア7割を生産しているそうです。

JR指宿枕崎線や市電が川を渡る、その地名も「涙橋」。
江戸時代、この先に処刑場があり、罪人と家族が涙の別れをした事から名付けられたそうです。
また、ここは、西南戦争の戦場のひとつで、石碑がそれを今に伝えています。

谷山・指宿方面への国道と交差すると、川幅が広がってきます。
満潮時には海の水が上ってくるのか、ほんのり磯の香りもします。

しかしこのときは干潮で、船も砂の上で休み中。

そして・・・海に出会いました。
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で、この間、休日出勤の代休を取って、歩いてきました。
今回は、タイトルにもあるように、田上川(新川)の源流部から河口まで歩いてみました。
出発は、山形屋バスセンター発、伊集院行きのバス。
国道3号、犬迫を経由して、横井まで。
武岡から伊集院へ向かう街道沿いの、酒屋さんの脇から下りていきます。
田上川は松元の仁田尾あたりが源流なのですが、地図で見ると仁田尾から川までは道らしい道がなさそうなので、こちらからのアプローチを選びました。
途中、横井の埋め立て処分場の間の道を行きます。
萩別府という小さな集落を通り過ぎ・・・
シラスの斜面を切り開いて作られた急な下り坂を抜けて・・・
田植え真っ盛りの盆地のような谷へ。
田上川もこの辺りでは透明で小さいせせらぎ。
川に沿って、谷底の小さい道を下っていきます。
途中、滝の音が聞こえました。
そして、ふたたび棚田の谷に出ました。
ここが、西之谷。
橋のたもとに、ペンキがはがれかけた標柱。
ここが、県が管理する「2級河川」としての「新川」の起点。
川に沿って、のどかな田園風景が続きます。
道ばたには、まきを積んだ小屋があったり。
川もだいぶ大きくなりました。
途中で景色は一変。
西之谷ダムです。
別にカラ梅雨で干上がっているわけではなくて、洪水の時だけ水が貯まる、洪水調節専用ダムなのです。
ダムを前から見ると、底のほうに開いた穴から、川の流れが出てきています。
鹿児島市街と松元を結ぶ県道に出会う頃、このような牧歌的な風景とはお別れです。
池田学園方面から流れてくる支流と合流する辺り。
ワタクシが小学生だったころは、この辺も田んぼが広がっていたのですが・・・。
住宅が建てこんできたり、南九州道の高架が走ったりして、風景はだいぶ変わりました。
高架下は、市内で回収された放置自転車の墓場みたいな様子。
大きめの堰のそばに、今も水神様が。
大峯橋。
30年くらい前まではこの辺りも田んぼで、川に下りてメダカを捕った思い出もあります。
サラヤという、おむすび屋さんの売店が、ロードサイドにあったのも遠い記憶。
どんどん川沿いに歩いていって、昼どきになり、お腹もすいたので、替玉屋でチャーシュー麺。
もちろん、替え玉も。
左は、田上小学校。
ワタクシは、その裏手にあるひばり幼稚園の卒園生です。
ところで。
江戸時代、田上川の中流から下流にかけては、今より北側を流れていたそうです。
それを、鹿児島城下の洪水を防ぐために、途中から南側に新しい川を掘って、それを「新川」としたそうです。
田上川の元の流れは、現在の荒田川だとか。
どこからが新しい川か、調べていないのでわかりませんが、
田上橋のちょっと下流。
周辺を観察してみると、この辺りから地形が何やら不自然になってきます。
川よりも周囲が低い、いわゆる「天井川」のようになり、そして、川の北側に、微妙にくぼんだ地形が並び、そして川から離れていくようにも見えます。
ひょっとしたら、この辺りが新しい人工の川と、もとの田上川との分かれ目かもしれません。
上流の西之谷ダムとセットの形で、洪水を防止するために川幅を広げる工事が続いています。
唐湊まで来ました。
セイカのアイスクリーム工場。
ワタクシは、小学校の社会科見学で来たことがあります。
お土産がアイスではなく、ボンタンアメでがっかりした思い出が・・・。
実は日本有数の綿工場、カクイの本社工場。
全国で「カクイわた」のホーロー看板を見かけます。
化粧用のコットンでは全国のシェア7割を生産しているそうです。
JR指宿枕崎線や市電が川を渡る、その地名も「涙橋」。
江戸時代、この先に処刑場があり、罪人と家族が涙の別れをした事から名付けられたそうです。
また、ここは、西南戦争の戦場のひとつで、石碑がそれを今に伝えています。
谷山・指宿方面への国道と交差すると、川幅が広がってきます。
満潮時には海の水が上ってくるのか、ほんのり磯の香りもします。
しかしこのときは干潮で、船も砂の上で休み中。
そして・・・海に出会いました。
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2012年10月26日
鹿児島にもタタラ場があった・・・「火の河原」
最近、川辺道路が川辺の市街地の近くまで延伸されたので、川辺や枕崎がぐんと近くなったような気がします。
錫山から川辺ダムに向けて走っていると、山並みがきれいで、晴れた日のドライブには最適な道です。
ところで、川辺ダムの上流の道路標識に、「火の河原」という地名の案内があります。
ワタクシがこの地名を知ったのは小学校3年生の頃。
社会科の授業で鹿児島市の地図がみんなに配られたのですが、鹿児島市の左下(南西)に記された「火の河原」という地名が、その近くの「上鬼燈火谷」という地名とともに、子ども心に怖かった思い出があります。
それ以来気になっていた地名でしたが、一昨年の今頃、初めて行ってみました。
ワタクシはもともと遠歩きが好きで、大学時代はワンダーフォーゲル部という、山歩きをする部活にも入っていたりもしていました。
今でも、よく遠歩きやサイクリング、山登りなどします。
もちろんその時も、歩き。
川辺ダムの駐車場にクルマを止めて、万之瀬川の上流に向けて歩いていきました。
途中で「火の河原」への案内標識に従い、ダム湖を渡って対岸へ。
山の中の道を歩いていくことしばし。
火の河原に到着しました。

火の河原は、世帯数10あまりの小さい集落です。
山の懐に抱かれるように、稲刈りもとうに終わった棚田がありました。
ひっそりとした、いわゆる限界集落のひとつかとも思われますが、しかし昔・・・1976(昭和51年)までは分校ですが学校もありました。

鹿児島市立福平小学校 火の河原分校

校舎は地区の集会所および巡回診療所として今も使われています。
それにしても、よく手入れされて、きれいに保たれています。

二宮金治郎の石像がひっそりたたずんでいました。
火の河原・・・山里の風景には似つかわしくない、おどろおどろしくもある名前ですが、ちゃんとした由来があります。
江戸時代までは、ここはタタラ場でした。
タタラ場といえば、「もののけ姫」にも出てきたような、山の中で鉄を作るところです。
溶けて燃える鉄が流れるさまから、「火の河原」と名付けられたもののようです。
でもなぜこのような山奥で製鉄がなされていたのでしょう?
まず、喜入の前之浜あたりで採れた砂鉄は、火の河原まで運ばれました。
そして、豊富な谷川の水で洗って、不純物を取り除きました。
砂鉄を精錬するには、今は石炭を原料としたコークスを使いますが、当時は木炭を使っていました。
山の中は、木炭の原料となる広葉樹の森がありました。
「もののけ姫」で山の木がなくなっていたのも、木炭用に木を伐採したからです。
「もののけ姫」では人力でふいごを動かしていましたが、火の河原では水車が動力源でした。
山の中で高低差があり、勢いよく流れる川の水は水車を回すのにうってつけだったのでしょう。
それらの利点があり、タタラ場は山の中に作られたのです。
そうして精錬された鉄は、日本最初のコンビナートとも言われる磯の集成館に運ばれ、さまざまな製品に姿を変えました。
集成館事業は、のちの明治維新にもつながる歴史的事業でしたが、火の河原はそれを支えていたのです。
日本の近代化を語る上での、埋もれた証人みたいな地名です。
さて、火の河原の集落から道なりに山の中を進んでいくと、細い細い県道に行き当たります。
坂之上方面とは逆に、川辺方面への道を進むと、やがて橋を渡ります。

橋の上から、滝みたいに流れる谷川の向こうに、観音様が立っているのが見えました。
これも何か歴史的ないわれがあるのではないかと思って近寄ってみました。
そばの石碑によると・・・1950年代、川辺から谷山へ抜ける道(細い細い県道)を開く時は難工事で、自衛隊も応援したほどだったが、ついに完成を見た。それを記念して、当時の谷山市と川辺町などが観音像を建立した・・・という、要約するとそのような事が記してありました。
この観音様は、日本の高度経済成長への道を現しているように思えなくもありません。
さらに歩き、稚児の滝や錫山などを見て歩き、あとは川辺ダムまで戻りました。
秋の一日、いいハイキングでした。
錫山から川辺ダムに向けて走っていると、山並みがきれいで、晴れた日のドライブには最適な道です。
ところで、川辺ダムの上流の道路標識に、「火の河原」という地名の案内があります。
ワタクシがこの地名を知ったのは小学校3年生の頃。
社会科の授業で鹿児島市の地図がみんなに配られたのですが、鹿児島市の左下(南西)に記された「火の河原」という地名が、その近くの「上鬼燈火谷」という地名とともに、子ども心に怖かった思い出があります。
それ以来気になっていた地名でしたが、一昨年の今頃、初めて行ってみました。
ワタクシはもともと遠歩きが好きで、大学時代はワンダーフォーゲル部という、山歩きをする部活にも入っていたりもしていました。
今でも、よく遠歩きやサイクリング、山登りなどします。
もちろんその時も、歩き。
川辺ダムの駐車場にクルマを止めて、万之瀬川の上流に向けて歩いていきました。
途中で「火の河原」への案内標識に従い、ダム湖を渡って対岸へ。
山の中の道を歩いていくことしばし。
火の河原に到着しました。
火の河原は、世帯数10あまりの小さい集落です。
山の懐に抱かれるように、稲刈りもとうに終わった棚田がありました。
ひっそりとした、いわゆる限界集落のひとつかとも思われますが、しかし昔・・・1976(昭和51年)までは分校ですが学校もありました。
鹿児島市立福平小学校 火の河原分校
校舎は地区の集会所および巡回診療所として今も使われています。
それにしても、よく手入れされて、きれいに保たれています。
二宮金治郎の石像がひっそりたたずんでいました。
火の河原・・・山里の風景には似つかわしくない、おどろおどろしくもある名前ですが、ちゃんとした由来があります。
江戸時代までは、ここはタタラ場でした。
タタラ場といえば、「もののけ姫」にも出てきたような、山の中で鉄を作るところです。
溶けて燃える鉄が流れるさまから、「火の河原」と名付けられたもののようです。
でもなぜこのような山奥で製鉄がなされていたのでしょう?
まず、喜入の前之浜あたりで採れた砂鉄は、火の河原まで運ばれました。
そして、豊富な谷川の水で洗って、不純物を取り除きました。
砂鉄を精錬するには、今は石炭を原料としたコークスを使いますが、当時は木炭を使っていました。
山の中は、木炭の原料となる広葉樹の森がありました。
「もののけ姫」で山の木がなくなっていたのも、木炭用に木を伐採したからです。
「もののけ姫」では人力でふいごを動かしていましたが、火の河原では水車が動力源でした。
山の中で高低差があり、勢いよく流れる川の水は水車を回すのにうってつけだったのでしょう。
それらの利点があり、タタラ場は山の中に作られたのです。
そうして精錬された鉄は、日本最初のコンビナートとも言われる磯の集成館に運ばれ、さまざまな製品に姿を変えました。
集成館事業は、のちの明治維新にもつながる歴史的事業でしたが、火の河原はそれを支えていたのです。
日本の近代化を語る上での、埋もれた証人みたいな地名です。
さて、火の河原の集落から道なりに山の中を進んでいくと、細い細い県道に行き当たります。
坂之上方面とは逆に、川辺方面への道を進むと、やがて橋を渡ります。
橋の上から、滝みたいに流れる谷川の向こうに、観音様が立っているのが見えました。
これも何か歴史的ないわれがあるのではないかと思って近寄ってみました。
そばの石碑によると・・・1950年代、川辺から谷山へ抜ける道(細い細い県道)を開く時は難工事で、自衛隊も応援したほどだったが、ついに完成を見た。それを記念して、当時の谷山市と川辺町などが観音像を建立した・・・という、要約するとそのような事が記してありました。
この観音様は、日本の高度経済成長への道を現しているように思えなくもありません。
さらに歩き、稚児の滝や錫山などを見て歩き、あとは川辺ダムまで戻りました。
秋の一日、いいハイキングでした。
2012年10月17日
石橋記念公園♪
以前、このブログで鹿児島には石造りの建物や構造物が多いことを書きました→こちら
鹿児島は数十万年前からの火山活動によって作られた「溶結凝灰岩」という良質の石が豊富に採れるので、土木建築材料として石がふんだんに使われました。
その代表的なものが、かつて甲突川に架かっていた5つの石橋・・・いわゆる五大石橋です。
肥後の石工・岩永三五郎とその一族の指揮の下、1845年から1849年にかけて相次いで架けられました。
以来、百数十年にわたり、ほぼ変わらぬ美しい姿で甲突川に在りましたが、1993年の水害で新上橋と武之橋が流出。
残る3橋も、河川改修工事に伴い撤去されました。
専門家によると、世界遺産に登録されてもおかしくない価値があるとされた橋だったのですが・・・。
それらの橋が移設された先が、鹿児島本港ウォーターフロントに近い、祇園之洲にある石橋記念公園です。
2000年に開設された公園については→こちら

西田橋。
もともとの橋は1846年に架橋、1953年に鹿児島県の有形文化財に指定されていました。
参勤交代路にあり、特に重厚な造りや特別な装飾がなされていました。
路面も、他の橋と異なり、美しい石畳となっていました。

ちなみにこの石畳は、もとの橋が撤去された当時は、アスファルト舗装に覆われて見えませんでした。
高麗橋。

もともとの橋は1847年に架橋。
1985年頃だったか、自動車が欄干に衝突して壊れ、そこだけコンクリートで復元されていましたが、移設に伴い、もとの石で復元されています。
玉江橋。

もともとの橋は1849年に架橋。
5つの橋の中でいちばん上流に、そしていちばん最後にできた橋です。
つくりが他の橋と比べて粗いように思うのはワタクシだけでしょうか?
石橋記念館と合せて、鹿児島の歴史や、江戸時代の土木技術も学べる公園です。
遊んだり、お弁当を広げている家族連れも多く見られました。
ワタクシはオカミサンに連れられて、先日初めてこの公園に来たのですが、優美な橋を眺めながらゆっくり散策するのは気持ちがよかったです。
当ブログの目次・新着情報は→コチラ
鹿児島は数十万年前からの火山活動によって作られた「溶結凝灰岩」という良質の石が豊富に採れるので、土木建築材料として石がふんだんに使われました。
その代表的なものが、かつて甲突川に架かっていた5つの石橋・・・いわゆる五大石橋です。
肥後の石工・岩永三五郎とその一族の指揮の下、1845年から1849年にかけて相次いで架けられました。
以来、百数十年にわたり、ほぼ変わらぬ美しい姿で甲突川に在りましたが、1993年の水害で新上橋と武之橋が流出。
残る3橋も、河川改修工事に伴い撤去されました。
専門家によると、世界遺産に登録されてもおかしくない価値があるとされた橋だったのですが・・・。
それらの橋が移設された先が、鹿児島本港ウォーターフロントに近い、祇園之洲にある石橋記念公園です。
2000年に開設された公園については→こちら
西田橋。
もともとの橋は1846年に架橋、1953年に鹿児島県の有形文化財に指定されていました。
参勤交代路にあり、特に重厚な造りや特別な装飾がなされていました。
路面も、他の橋と異なり、美しい石畳となっていました。
ちなみにこの石畳は、もとの橋が撤去された当時は、アスファルト舗装に覆われて見えませんでした。
高麗橋。
もともとの橋は1847年に架橋。
1985年頃だったか、自動車が欄干に衝突して壊れ、そこだけコンクリートで復元されていましたが、移設に伴い、もとの石で復元されています。
玉江橋。
もともとの橋は1849年に架橋。
5つの橋の中でいちばん上流に、そしていちばん最後にできた橋です。
つくりが他の橋と比べて粗いように思うのはワタクシだけでしょうか?
石橋記念館と合せて、鹿児島の歴史や、江戸時代の土木技術も学べる公園です。
遊んだり、お弁当を広げている家族連れも多く見られました。
ワタクシはオカミサンに連れられて、先日初めてこの公園に来たのですが、優美な橋を眺めながらゆっくり散策するのは気持ちがよかったです。
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2012年10月15日
慈眼寺公園のコスモスが見ごろ
日曜日の午後・・・オカミサンと谷山にある らぁめん柿の木 本店で満足した帰りに、慈眼寺公園まで足を伸ばしてコスモスを見に行きました。
ワタクシにとって、おそらく四半世紀ぶりの慈眼寺公園。
前行ったときは、相当な山奥の雰囲気だった記憶があるのですが、今は新しい住宅街がすぐそばまで建て込んでいて、ビックリ。
コスモス園に近い駐車場の場所が分からず、そうめん流しのそばの駐車場にクルマを停めました。
そこの駐車場はクルマが少なく、ひっそりとしていました。
そこからコスモス園までは結構歩きましたが、後になってから大正解だったと知りました。
コスモス園までは沢沿いの遊歩道を上ります。
緑の中で清いせせらぎの音を聞きながらの散策は、とても気持ちが良いものでした。

そしてたどり着いたコスモス園。


空は曇り模様でしたが、畑いっぱいのコスモスの花が、涼しい秋の風に揺れるさまは可憐で、そしてきれいでした。
それにしても、コスモスによくぞ「秋桜」の字を当てたものです! と感心します。
畑には大勢の見物人がそぞろ歩いたり、写真を撮ったり。
そしてメインの大駐車場は満車で、空きを探す車が右往左往していました。
休日にクルマで来たら、歩くのを楽しめる人だったら、そうめん流しそばの駐車場がぜひオススメです。
さて。
今回は立ち寄りませんでしたが、慈眼寺公園には良い水が湧くスポットがあります。
「酒水の井戸」と呼ばれる井戸で、非常に良質の水なので昔から酒造りに使われているそうです。
やはりここも、シリカ質のシラス台地を天然のフィルターとして浄化された清らかな水です。
水汲み場があり、ペットボトル持参で来る人も多いようです。
さらに慈眼寺は、水道局の慈眼寺水源もあるのですが、残念ながら河川水を浄水場で浄化した水と混合されて水道水として供給されているようです。
慈眼寺公園については→ こちら
なお、今年のコスモスは今月いっぱいは楽しめるということです。
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ワタクシにとって、おそらく四半世紀ぶりの慈眼寺公園。
前行ったときは、相当な山奥の雰囲気だった記憶があるのですが、今は新しい住宅街がすぐそばまで建て込んでいて、ビックリ。
コスモス園に近い駐車場の場所が分からず、そうめん流しのそばの駐車場にクルマを停めました。
そこの駐車場はクルマが少なく、ひっそりとしていました。
そこからコスモス園までは結構歩きましたが、後になってから大正解だったと知りました。
コスモス園までは沢沿いの遊歩道を上ります。
緑の中で清いせせらぎの音を聞きながらの散策は、とても気持ちが良いものでした。
そしてたどり着いたコスモス園。
空は曇り模様でしたが、畑いっぱいのコスモスの花が、涼しい秋の風に揺れるさまは可憐で、そしてきれいでした。
それにしても、コスモスによくぞ「秋桜」の字を当てたものです! と感心します。
畑には大勢の見物人がそぞろ歩いたり、写真を撮ったり。
そしてメインの大駐車場は満車で、空きを探す車が右往左往していました。
休日にクルマで来たら、歩くのを楽しめる人だったら、そうめん流しそばの駐車場がぜひオススメです。
さて。
今回は立ち寄りませんでしたが、慈眼寺公園には良い水が湧くスポットがあります。
「酒水の井戸」と呼ばれる井戸で、非常に良質の水なので昔から酒造りに使われているそうです。
やはりここも、シリカ質のシラス台地を天然のフィルターとして浄化された清らかな水です。
水汲み場があり、ペットボトル持参で来る人も多いようです。
さらに慈眼寺は、水道局の慈眼寺水源もあるのですが、残念ながら河川水を浄水場で浄化した水と混合されて水道水として供給されているようです。
慈眼寺公園については→ こちら
なお、今年のコスモスは今月いっぱいは楽しめるということです。
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