2018年09月16日

小説 遠い夏の日の南薩線(9)

 何匹もしつこく寄ってくるヤブ蚊を払い、あの時の事を思い出しながら、空き家になった父親の実家の母屋の周りを一周した。
 佳子の部屋があったところも、戸は雨戸が閉められ、釘で固定されている。
 築山は草払いもされないまま藪になり、大きな蘇鉄が草木に埋もれている。立派だったヒトツバは対照的に、すっかりみすぼらしくなっている。

 あの時父親は、もう避けられなくなった離婚の事について、伯母に相談していたのだろう。あるいは相談でもなく、決まった事の報告をしていたのかもしれない。
 加世田への小旅行から三日後に母親が帰ってきて、それから慌ただしく母親と豊の荷物がまとめられ、お盆明けには西郷団地の母親の実家に引っ越したのだ。
 新学期から豊は、西陵小学校に通い始める事となった。

 当時の西郷団地は造成がほぼ終わり、転入のピークも大詰めの頃で、豊はあくまでも数多くの転入生の一人として受け入れられた。
 しかし彼自身は、別れを告げる事のできなかった大部分のクラスメートの事が心残りでならなかった。
 いやそれよりも、ただ怖いと思っていた父親の優しい、本当の顔に触れられたと思ったのに、それからすぐに引き離された事は、豊の心にいくらかの傷を残した。

 さらに父親との小旅行の翌年の春、南薩線が廃止されてしまい、父親との大切な思い出を構成する重要な要素の一つが失われてしまったような思いも味わった。
 しかも豊自身の心の整理が付かないうちに、親戚からの強い勧めもあり母親が再婚し、二人は岸和田へと再度の引越しをした。

 豊が小学六年生の冬だった。

母親の再婚相手は実の子供二人を独立させたばかりだったが、その割にはまだ若かった。
前妻とは五年ほど前に死別していた。

 子煩悩で、豊はよく可愛がられたが、しかし彼は新しい父親になかなか馴染めず、大学二年の夏に一人暮らしを始めて家を出るその日までついに、「お父さん」とも「おやじ」とも呼べなかった。
 それでも、卒業まで資金的に援助してくれて、就職祝いにも高価なパソコンセットを贈ってくれたのだ。

 結婚式には父親として出席してくれたし、孫として生まれた淳には、血の繋がりはないのに、溺愛という表現では足りないほどの偏愛ぶりを見せてくれる。
 その愛情に応えられないのは、やはり実の父親について心の総括ができていないからだろうとも思う。

 結局実の父親とは、両親の離婚後一度も会わず、手紙を送る機会もなく、ただ、彼が大学生になって間もなくの頃に、職場で倒れてそのまま急死した事と、取締役だったので、それなりに大きな葬儀が執り行われた事だけを、母宛に届いた伯母からの手紙で知った。
 それからも四半世紀近い時間が経過し、その間、一度も父親の墓に参っていない。

 そもそも、父親が眠っているかもしれない父方の家の墓がどこにあるのか、全く当てにならないあやふやな記憶しか残っていないのだ。
 改めて思えば、父親の実家が豊と父親とを繋ぐ、唯一の窓口のはずだった。そしてその窓口が今も確かにある事さえ確認できれば、彼としてはとりあえず満足だったかもしれない。

 しかし、それが無い。

 そこから立ち去ろうにも、未練ばかりが残って立ち去れなかった。

「どちらさんですか」

 唐突に声をかけられ、豊は全身で身震いした。

「ここ、うちの土地なんですが……」

 怪訝そうに豊を見る中年の女性の顔には、確かに見覚えがあった。
 佳乃だ。
 彼女も、ようやく豊だとわかったようだ。

「ああ、ええと……誰だっけ……ああ、ひょっとしてゆっくん?」
「そうです。勝手に入って、申し訳ございません」

 豊は深々と頭を下げた。
 佳乃は手で顔を覆いながら笑った。

「いや、そんなのじゃないのよ。ただ、通りかかったら誰かいたもんだから、不審者じゃないかと思っちゃって……それにしても、亡くなったお父さんにも似てきて、ほんとにねぇ」

 豊は再び頭を下げた。


→(10)へつづく

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Posted by 植野 丈 (吉松真幸) at 15:09│Comments(0)創作
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