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Posted by チェスト at

2013年09月29日

新武岡トンネルを通ってみた

本日(9月29日)16時、新武岡トンネルが開通しました。


建部神社側入口。信号停車中に撮りました。

ちょうど与次郎のニシムタで買い物をしたので、新トンネルを通って帰ることにしました。

しかし・・・中州通りに通じる道は天保山中学校辺りから大混雑。

天保山中学校から甲南高校まで45分もかかりました。

なぜこんなに混雑していたのか・・・?


最初ワタクシは、ちょうどドカ灰が降ったのが原因だと思いました。

けれども、反対側の車線はがら空きで、中洲通りと交差する道路もそれほど混雑しているふうはありませんでした。

ワタクシみたいに、とりあえず新トンネルを通ってみようという人が多かったんだろうなぁ~・・・というのが、推定される原因のひとつ。

結局、ニシムタから1時間半もかかってようやく建部神社側入口に。

しかしトンネルに入っても、車はちっとも進みません。


停車中に窓を開けてこんな写真が撮れるくらい。

どうやら、西郷団地方面へ分岐する右車線が、出口のところで詰まっているらしいのです。

そして、インター方面へ直通する左車線から、右車線へ入り込もうとするクルマが車線をふさぎ、結果として左車線も詰まっていました。

もう、トンネルに入る段階で、田上・西郷団地方面へ向かう車は右車線、インターに向かう車は左車線へと入っていったほうが、まだスムーズに流れるかもしれません。

まだ当分はこの混雑は続くかもしれません。
利用される方は、ご用心を。


9月30日追記:開通翌日、月曜日の朝、武岡トンネルは今までの混雑がウソのようにスムーズにクルマが流れたようです。

ただ、これまでの対面通行2車線が、上下2車線ずつの4車線になったわけですが、これで今までの渋滞がきれいに解消するかどうかは、日にちが経ってみないと分かりません。

なぜなら、便利な新しい道ができると、それまで別のルートを通っていたクルマがそこに集中する傾向があるからです。

かつて熊本で、幹線道路のひとつで踏切を解消して立体交差にしたら、交通量そのものが増え、あまり渋滞は解消されなかったという例もあります。

もうひとつ・・・市街地方面への渋滞は、その先頭がJRの陸橋を越えた電車通りにあることも多く、渋滞の途中にあるトンネルが車線増となったとしてもどれだけ渋滞が解消するか分からない・・・これは、先日、タクシーの運転手さんから聞いた話。

まぁ、交通の流れがどうなるか、これからに注目です。


追記:どうやら、天保山まで続く東西幹線道路の東行き(これまでの武岡トンネルを使う市街地方面行き)については、武岡トンネル途中に分岐をつくらずに、もう一本新しくトンネルを掘る方式になる可能性が高くなったようです。

これで、武岡トンネルが2年間通行止めになるのではないか? という不安は、解消されるかもしれません。



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Posted by 植野 丈 (吉松真幸) at 19:46Comments(0)つれづれ

2013年09月26日

楽天、ありがとう

ワタクシは、高校生くらいの頃から、東北には妙に惹かれていました。

青年期を東北で過ごした北杜夫や井上ひさしのや鈴木健二の本を読んでいた影響か、あるいは「北人霊歌」を標榜し、岩手に拠点を構えて活動していた音楽ユニット「姫神」のファンだったからか。

受験勉強そっちのけで、柳田国男の「遠野物語」を読み込んだなぁ。

東北の大学に通うという夢はかなわず、結局は九州土着の人間みたいになってしまったようなワタクシだけど、しかし東北へは何度か旅をしました。

それくらい愛着のある土地だったから、震災直後には後先考えずに7日間、石巻で災害ボランティアとして泥かきやがれきの撤去をしたりしました。

話は前後するのだけど、その東北にプロ野球球団が設立された時、その経緯もあってワタクシはすっかり冷めた目で新球団を見ていました。

しかしそれから9年。

東北楽天イーグルスはすっかり東北に溶け込み、野村監督が土台をつくり、星野監督が仕上げるという黄金パターンを踏襲して、見事リーグ優勝。

心からバンザイを叫びたい気分です。


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Posted by 植野 丈 (吉松真幸) at 22:16Comments(0)つれづれ

2013年09月23日

今更ながら田中康夫氏の発言の言葉尻を捕らえて揚げ足を取ってみる

今日、桜島の事をネットで調べていて、個人的にムカついた記事を発見してしまいました。

田中康夫氏が2011年12月8日に日刊ゲンダイに寄せたもののようですが・・・
(さらにもともとは、同日に行われた 「東京電力福島原子力発電所事故に係る両議院の議院運営委員会」の合同協議会で述べたものらしい)


http://www.nippon-dream.com/?p=6463

要は、目にも見えず匂いもしない、けれども人体に悪影響を及ぼす厄介ものの放射能を封じ込めるために、福島第一原発から半径30km以内を居住禁止区域にし、さらに世界中から排出される核のゴミをそこに受け入れれば、「最大最強の安全保障政策の確立です」としている。

その中で、除染(除洗)がいかにナンセンスであるかを説明するために、何故か桜島を引き合いに出しているのです。

"「除洗」も、再考すべきです。語弊を恐れず申し上げれば、桜島の噴火が終息していないのに鹿児島市内で愛車を水洗いしている“滑稽さ”と同一です。"

そうですか? 滑稽ですか??

ワタクシは昨日、久々にクルマを洗ったら、まだ乾かないうちに桜島の灰に見舞われ、けっこう悲惨な事になりました。

その翌日の事だから余計に、ムカついたわけです。
ええ、理性とか大人の対応とか、それの及ばない心のうちで、イラッときた訳です。


そもそも、人災であり、そして洗っても洗っても取れない福島の放射能と、天災であり、洗えば一応はきれいになる桜島の灰を同列に論じているところがおかしい。

それに、桜島の灰は目に見える汚れであるから、その都度洗い流さねばならない。
昨日ワタクシがクルマを洗ったのも、オカミサンと長女の里帰り先に行くための、せめてもの「身だしなみ」のつもりです。

それに、そこで先祖の代から暮らし、生計を立てていた人が大勢いる福島の一地域について、除染の可能性を端から否定して、居住禁止区域にしてあまつさえ世界中の核のゴミをそこに集中させることが国益にかなうと論じる乱暴さ。
(それに、集めた核のゴミをどのように封じ込め、大気中や海洋に放射能を拡散させるのを防ぐかという考えが抜けています。氏が言及しているフィンランドのオンカロにしろ、そこが未来の人類にとっての危険になりうるとされています)

たとえダメ元でも、いずれは住民が帰還できる除染技術を開発しようという方向に考えられないのでしょうかね?


最後に・・・政治家というものは、
「語弊を恐れずに申し上げれば」
と前置きすれば何を言っても許されるわけではないですが。

一応ワタクシもこのタイトルで、「今更ながら」「言葉尻を捕らえて」「揚げ足を取って」などと予防線を張っているが、それはワタクシが一般小市民だから許される事であるのです。


なんか、政治家の言葉というものが、どんどん軽く薄っぺらになっていくのを感じざるを得ません。  

Posted by 植野 丈 (吉松真幸) at 22:03Comments(0)思うこと

2013年09月12日

お子様に観せるな 「風立ちぬ」

ようやく9月になって、しかも宮崎駿監督の引退宣言の後になってから観てきました、「風立ちぬ」。

実在の航空設計技師・堀越二郎氏という実在の人物の半生に、堀辰雄氏の小説「風立ちぬ」というフィクションを重ね合わせてつくられた映画。

感想は、まず、「素晴らしい映画だった」。

これまでの宮崎アニメとは一線を画す、大人のラブロマンス。

それも、切なく哀しい物語。

そうそう、かつて「紅の豚」が公開されたとき、当時二十歳を少し過ぎたばかりのワタクシは、その世界のテンポというか流れについていけなかった。

でも、四十を越えた今では、あの世界のダンディズムがすんなりと胸に入ってくる。

「風立ちぬ」も、それなりに年齢と人生経験を重ねたうえでなければ、その本当の感動は得られないのではないか。

上映が終わった後、明るくなった周りを見回してみると、年配の人ほど涙していたり、ハンカチを顔に押し当てていたりしたのがその証左だろう。

その意味では、まだ四十そこそこのワタクシも、まだこの映画の本当の感動を得ていないのではないか?

なにしろ宮崎監督は72歳。
これを最後に引退すると覚悟してつくった映画だ。
これまでの「宮崎アニメ」の作法をことごとく封印し、ひょっとしたら監督自身の気持ちの赴くままつくった映画かもしれないのだ。
この映画を観ると、宮崎監督の引退宣言の本気度も伝わってきた。

お子様に観せるな、というより、コドモにこの映画がわかってたまるか! という思いだ。


映画の中では、主人公の二郎は、ただただ美しい飛行機をつくる夢を追い続ける。

時代は大正から昭和初期。
日本は貧しい。
職を求め長距離を線路伝いに歩いて移動する人々。
銀行の取り付け騒ぎ。
土ぼこりのする道路を行きかう車。
仕事で遅い親の帰りを、薄暗い街燈の下で待つ子どもたち。
二郎は腹をすかせているに違いない子どもたちにパンを差し出すが、子どもは自らのプライドを守るかのように二郎を拒絶する。

それほどまでに貧しい国なのに、国を挙げて軍艦をつくり、空母をつくり、戦闘機をつくる。
しかしその戦闘機すら、工場で組み立てて滑走路に運ぶまで、牛に牽かれて移動するのだ。
二郎が視察に行ったドイツの工場には牛などおらず、街路は石畳で舗装されていて、部屋の暖房機のラジエーターにすらジェラルミンが使われているというのに。

時代は戦争に向けてひた走り、つくる飛行機も戦闘機や爆撃機ばかり。
しかし二郎は、その中にあって・・・発注者である軍の過大な要求にもかかわらず、ただひたすら美しい飛行機をつくろうと、ひたすら製図台に向かう。

それと並行して、美しいけれども薄命の少女・菜穂子との出会いと、ふたりの生活が描かれる。

そして、美しくも哀しいラストへと物語は進む・・・

・・・本当に素晴らしい映画でした。




さて。

映画では多くを語られなかったが、実在の堀越二郎は零戦の主任設計技術者として後に知られるようになる。
そして戦後は、長いブランクを経て、戦後初めての国産旅客機・YS11の設計にも加わる。

YS11は1962年(昭和37年)に初飛行し、1964年(昭和39年)に量産開始。
高度経済成長期、日本の民間航空路線は飛躍的に伸びていったが、それにはYS11の貢献も大きかった。
鹿児島を例にすれば、離島航路の大型化と安定輸送はYS11が担ったと言っていい。

YS11は、堀越二郎を含む設計技術者の大半が戦闘機設計の出身だったから、民間機にしてはおそろしく無骨に、頑丈に、そして真面目につくられていた。
でもそれだからこそ、平成の世になっても日本のローカル航空路の主役であり続けた。
(日本国内の最後のフライトは2006年・平成18年9月30日の沖永良部発 鹿児島行き)

そして、蛇足ながら、もうひとつ。

映画の中の二郎と同じ時代を、同じ名古屋で戦闘機の設計技師として生きたひとがいた。

井上廣則氏。

堀越二郎氏は三菱の工場だったが、井上氏は愛知航空機(現在の愛知時計電機)の工場にいた。

戦後は故郷の鹿児島県開聞町に戻り、町役場に勤めていた。
その後、助役となり、堀越氏たちがYS11を初飛行させたのと同じ1962年、唐船峡に開聞町営のそうめん流しを開いた。

その町営そうめん流しで井上氏が発明した回転そうめん流し機は、高度経済成長に伴ったレジャーブームの中で、西日本を席巻した。
その発祥の地のそうめん流しは、平成の大合併で指宿市営となったが、今でも夏季を中心に年間30万人を集めている。

井上氏はその後、開聞町長となり、その胸像が市営唐船峡そうめん流しの入口にある。
その顔は、にこやかに観光客に微笑みかけているようにも見える。


堀越氏や井上氏のような、いい仕事をしたいものだと思う。


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Posted by 植野 丈 (吉松真幸) at 22:34Comments(0)観たり聴いたり読んだり

2013年09月03日

こどものなまえ

昨日、オカミサンとアカチャンが退院しました。

その2日前の土曜日、ワタクシは仕事が終わってからオカミサンの里帰り先の町へ向かい、退院までふたりに付き添っていました。

外は2晩続けて激しい雷雨。

アカチャンは昼夜の別なく、外の天気にも構わず、ミルクだ、オムツだと2時間おきくらいに泣きました。

ようやく寝かしつけて、ワタクシも眠ろう・・・としても、寝入りばなにアカチャンが泣く夢を見て飛び起きたり、ほんとうに、オカミサンの苦労がよく分かりました。

でも、小さい体いっぱいに泣いている姿を見ると、
「ああ、生きているんだなぁ・・・こんなに小さいのに、一生懸命がんばっているんだなぁ」
などと、感慨というか、静かだけれども深い感動が湧いてきて、涙が出そうになりました。

2泊3日のうちに、オカミサンに教わりながら、ミルクも、オムツ替えも、ちゃんとできるようになりました。


そして、退院の日。

雨も昼には上がり、陽も差してきました。


おばあちゃんが買ってくれたセレモニードレス。

助産師さん、看護師さんはじめスタッフの方々に見送られながら産院を後にし、オカミサンの実家に向かいました。

その途中、市役所に寄って、出生届け。
これで、名無しではなくて、ちゃんとした名前が付きました。


それにしても、名付けには苦労しました。

名前の響き、字画、そして名前の意味を吟味しながら、ああでもない、こうでもない・・・と、ただただ産まれてくるこどもの幸せだけ願いながら、付けました。


ところで。

ここ最近、キラキラネームと言われる、奇をてらった名前・・・こんな名前じゃ将来苦労するんじゃないかと、他人事ながら心配してしまうような名前が流行っていますね。

でも、キラキラネームとは対照的な、次の名前・・・

ひかり ほまれ つばさ あすか のぞみ あずさ こだま かいじ さくら はるか みずほ たから あさひ あおば

やまとことばもあって、みんないい名前に聞こえるかもしれません。
けれど、これらは列車の愛称や、花の品種名。

身内や友人たちのなかには、こどもに列車の愛称や花の品種名から取った名前をつけた人が結構います。
上に挙げた中にも、その名前が混じっています。


・・・ワタクシたちのアカチャンの名前もこの中にありますが、ひとつ弁解を。

その名前は、古来から日本に伝わる、由緒正しいく奥ゆかしい名前です。
その名前は、列車とは関係のない他の5つくらいの候補を抑えて選ばれました。
その名前は、とてもとても女の子らしい名前です。

ワタクシが鉄道ファンでなければ、みんなから「あらあら、いい名前をもらって~」と言われたに違いない名前、なんですがね。
いくらワタクシが列車とは関係ないといっても、誰も信じてくれない悲しさです。


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Posted by 植野 丈 (吉松真幸) at 23:43Comments(0)つれづれ