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Posted by チェスト at

2018年08月28日

ちびまる子ちゃん、平成とともに

アニメ『ちびまる子ちゃん』の原作者のさくらももこさんが亡くなったという報せ。
これはある意味、国民的な重大ニュース。

1990年の正月明けから28年も続く『ちびまる子ちゃん』のアニメ。
始まった時はまだ生まれてもいない年代が、そろそろ親になるくらいの、28年という時間。

このアニメは、確かにひとつの時代を作ったと思う。

しかし始まる前の盛り上がりは、今ひとつだった。

時代は、バブル景気の最中。
社会全体が、熱病に浮かされたように、崖のような急な坂道を、嬉々として駆け上がっていた。
虚飾というか、とにかく実態以上に飾り立て、薄っぺらい成金志向にみんな取り憑かれていた。

そこへ、70年代のひとりの女の子・・・決して優等生ではないし、華やかさもない、少々毒のある、等身大の女の子。
さくらももこさんの分身のような、女の子の日常。

あの時代の空気の中では、確かに浮いていた。
89年に月刊アニメージュで最初に制作が告知されたのも、半ページにも満たない、小さな小さな記事。

まだ誰も、後の大ブレークなど想像もしなかったのではあるまいか。
話は前後するが、『ちびまる子ちゃん』の成功に刺激されたかのように、西岸良平さんの『三丁目の夕日』もアニメ化されたが、こちらは半年で終わっている。

『三丁目の夕日』自体は21世紀になって3度も実写映画化され大ヒットしたが、まああんな昔を懐かしむ系のコンテンツは受けない、そんな時代だった。
よくもあの当時に『ちびまる子ちゃん』の企画が通ったなと、驚き、感心もするし、関係者の方々には頭も下がる。

とにかく、『ちびまる子ちゃん』は瞬く間にブレイクした。
アニメは高視聴率を叩き出し、原作漫画は版を重ね、テレビからもラジオからもアニメの主題歌の『踊るポンポコリン』が流れっ放しになった。

あのお化けみたいな国民的ブレイクのしかたも、それこそ熱病に浮かされたようだった。
しかしそれは、これでもかと着飾った華やかさに、身の丈ピッタリの普遍性が勝利した歴史的場面だった。

前年、89年の暮れに過去最高値を記録した日経平均株価は、年が明けてから一方的な下落傾向を見せ、バブル景気に影が差し始めた、あの時代。
上り坂を無茶して駆け上がって、行き着いた先の崖っぷち。

熱が下がり夢から覚めて、ハッと我に返って自分の足元を見つめ直す、そんな時代の空気にマッチしたのかもしれない。

経済も文化も狂乱的な幕開けだった平成の始めに、ひょっこりと現れて、チョロチョロしていたちびまる子ちゃん。
平成の終わりに、作者が亡くなるというのも、何かしら象徴的ではある。

合掌  

Posted by 植野 丈 (吉松真幸) at 21:16Comments(0)89→91

2017年07月26日

風の又三郎 ガラスのマント

僕が生まれて初めての献血をする前に見た映画が、『風の又三郎 ガラスのマント』だった。

小学生の時に宮沢賢治の生涯を書いた読み物で、宮澤賢治という詩人の人となりが心に強く刻み込まれたのが僕と賢治との出会い。

中学一年の時に『銀河鉄道の夜』のアニメに感動した。

中学の時には賢治の童話を読み漁り、読みふけったが、『春と修羅』をはじめとする詩の数々は、まだ幼なかった僕には歯が立たなかった。

もっとも、のちにハタチくらいになってからは、詩の方にのめり込んだけれども。

いちばん好きだったのが『グスコーブドリの伝記』。

当時の十代の僕にとっては、作品、世界観、生き方、すべてが憧れの対象だった、いわゆる「賢治ワールド」。

そしてその宮澤賢治作品の映像化作品のひとつが、『風の又三郎 ガラスのマント』だった。

この映画のことは、公開直前の新聞の特集記事で知った。

そしてその記事で紹介されていた、ヒロイン・かりん役の早勢美里の写真にとても強く心を惹かれた。

早勢美里といえば、1990年前後に光り輝いた美少女スター。

『風の又三郎 ガラスのマント』は、その早勢美里のデビュー作だったと、後で改めて知った。

元々の宮澤賢治ファンである事に加え、写真の早勢美里の眼差しもあって、公開直後に観に行った。

しかし1989年という当時は、世間は円高不況を乗り切った後のバブル景気に浮かれ騒ぎ、そんな地味な映画には目もくれないような感じもあった。

だからか、鹿児島での封切館は山下小学校の近くにあったミニシアター「シネマ80・120」だった。

その映画館は名前の通り、80席と120席のシアターがふたつ並んだ作りになっていた。

そういえば『銀河鉄道の夜』を観たのも、そこだった。

そんな小さい映画館なのに、しかも封切り間もないのに、お客の入りは悲惨なくらいのガラガラさだった。

しかし映画自体は、原作の味わいを少しも損なう事なく、そしてかりんという原作にはなかったキャラクターも効果的に活き活きと華を添え・・・素晴らしかったように、当時高校一年の僕には見えた。  

Posted by 植野 丈 (吉松真幸) at 21:22Comments(0)89→91

2017年07月18日

初献血

高校時代の僕は、今よりずっと、はるかに人の役に立ちたいと思っていた。

その思いの強さは、熱意というものもはるかに超えた、欲求のレベルまで高まっていたと思う。

それは、若かったからだろうか。

それとも、大人になろうと背伸びをしていたからだろうか。

あるいは、高校に入ってから勉強も何もかもダメダメだったから、「世の中にとって必要な人」という実績・・・自分を納得させるための実績が欲しかったからだろうか。

そんな僕にとって、16歳の誕生日は特別な意味を持っていた。

16歳になれば、献血ができるようになる。

そして迎えた16歳・・・当時最も身近なところにあった献血できる場所は、天文館の献血ルームだった。

しかしその頃の僕にとって、天文館は実際の距離よりも遠いところにあった。

それは母親が僕に対して過保護なところがあって、天文館のような繁華街に一人で行くことに難色を示していたからだ。

僕も僕で、もう大人の入り口に立っているような年齢だったのに、母親の言いなりになっていた。

学校の試験の絡みなどもあったりして、結局献血ルームに行けたのは、誕生日から1か月以上も過ぎた、春休み目前の土曜日の午後の事だった。

それも、映画を観にいくことを口実にして、なんとか許しを得た天文館行きだった。

映画は、宮沢賢治原作の『風の又三郎 ガラスのマント』。

映画の前に、献血。

献血ルームは、想像していた以上にゆったりとした雰囲気だった。

何もかも初めてだったが、スタッフの方々も慣れたもので、アンケート、検査のための採血、そして本番の採血と、順調に進んでいった。

その当時はまだ血液の比重を測るのに硫酸銅溶液を使っていて、試験管の中に落とされた一滴の血がゆらゆらと沈んでいくのが印象的だった。

血液型も、パレットのような盤の上で試薬を使って調べていたような気がする。

今だったら、計測器でほんの一瞬、の作業なんだろうけど。

ゆったりとした椅子に仰向けになり、採血。

腕の上を這うようにくねっているシリコンチューブの中を、自分の真っ赤な血液がすうっと流れていき、チューブに触れた腕が自分の血の温もりを感じた時、ゾクゾクと身震いした。

200ml献血だったからあっという間に終わり、後はソファでフリーのお菓子をつまんだり、これもフリーのドリンクを飲んだりして、映画までの時間をつぶした。

ちなみに、頂いたお土産? の中に、今でも定番の練り歯磨きの他にいくつか細々としたものが入っていて、サザンピア21の入場チケットまであった。

たしか鹿児島市制100年記念の都市博覧会、サザンピア21はすでに始まっていて、見物に行きたいと思っていたので、なんかすごく嬉しかった。

サザンピア21と、献血の後に観た映画『風の又三郎 ガラスのマント』については、また改めて書こうと思う。  

Posted by 植野 丈 (吉松真幸) at 19:40Comments(0)89→91

2017年07月08日

天皇陛下崩御

1989年は、昭和天皇の深刻なご病状を受けての自粛ムードの中で明けた。
しかし、「謹賀新年 昭和64年」などと書かれた横断幕などは街頭でよく見かけたと記憶している。

結局、昭和64年は1週間ほどしかなかったわけだけれども。

(既に鋳造が始まっていた「昭和64年」と刻印された硬貨は、わずかしか市場に出なかった。
結果として、その希少性からコインマニア以外にももてはやされた時期があった)

1月7日、その日、テレビのニュースでは朝から、いよいよ重篤になった天皇陛下のご病状について報じていた。
それでも日常生活は、少なくとも表向きには普段と変わらず始まった、ように感じられた。

冷たい冬の雨がしとしとと降るのも含めて。

その状況が一変したのは、「ご危篤」報道一色の朝のニュースの途中。
宮内庁や首相官邸周辺が慌ただしい動きを見せ始めたのが分かった。

そして、宮内庁の記者会見で天皇陛下崩御の発表。

画面がさっと切り替わり、臨時ニュースを伝えるチャイムとともに、真っ黒な画面いっぱいに
「天皇陛下崩御」
の白い毛筆体の文字。

しかし私は、冬休みの補習授業のために登校した。
私は高校1年生だったが、あまりの成績不良のために、受験生でもないのに朝補習を受けさせられていたのだ。

そして授業は通常通り進行。

昼前に補修授業を終え、家に帰る途中、喪章の下がった日章旗を表に出している家を何軒か見かけた。

それと人通りがいつもより極端に少ないのを除けば、何事もなかったような静けさ。

しかしテレビは特別編成となり、激動の昭和を振り返る番組が夜になっても続いた。
その途中、当時官房長官だった小渕恵三氏が新元号「平成」を記者会見で発表。
「平成」と書かれた額を掲げる姿は、強烈に印象に残った。
(ある時期まで、小渕氏は「平成おじさん」という別名が世間から付けられていた)

そして、日付が変わろうとする24時。

ニュースキャスターが、
「昭和が、終わります。そして、平成が始まります」
と重々しく告げ、0時を告げる時報チャイム。

昭和とはまた別の意味で激動の時代となる平成は、静かに、厳かに明けた。  

Posted by 植野 丈 (吉松真幸) at 17:02Comments(0)89→91

2017年06月25日

UFOキャッチャーと初めて出会った日のこと

1989年・・・昭和64年の正月は、いわゆる自粛ムードの中にあった。

前年の秋から昭和天皇の病状が重篤な状態が続いていて、テレビなども過度な笑いが抑制されていた。

正月番組の演出も抑え気味で、社会全体が空前の好景気とは裏腹に、重苦しい雰囲気にあった。

そんな正月、高校1年生のワタクシはUFOキャッチャーと出会った。

当時も基本的には現在あるキカイと変わらないものだが、そもそもがワタクシはその存在さえ知らなかったので、非常に珍しいものを見つけた気分になった。

全国のゲームセンターの前に人だかりができるという社会現象も、もっと後のことだったし。

家族で照国神社に初詣に行った帰りに、当時の鹿児島三越だったか、高島屋プラザだったか忘れたけれど、とにかく電車通りに面したロッテリアで軽い昼食を済ませ、常盤にある家に帰る途中のことだった。

そう、当時は天文館にもロッテリアがあった。

話を戻して、UFOキャッチャーと出会った場所は電車通りにあったゲームセンターの店先。

元旦ということで電車通りは人や車の往来が普段よりだいぶ少なかった。

ピンク色の箱の上にガラスの箱が乗っかったキカイから、「グリーンスリーブス」の哀調を帯びたメロディがエンドレスで流れていて、それが物寂しさというか物哀しさというか、そんな雰囲気をかもし出していた。

正月で上機嫌だった父が、「やってみっか」と、ポケットから小銭入れを取り出した。

確か、1プレイ40円、そして100円で3プレイだったと思う。もっとも後にUFOキャッチャーがブームになると、現在と同じ1プレイ100円になったけれど。

しかしなかなか取れない。クレーンがヌイグルミを掴んでも、力なくするっと抜け落ちてしまう。

ワタクシや妹、母も代わりばんこに挑戦したが、結局1個も取れず、その場を後にした。
「きっと、誰も取れないように力を弱くしているんだ」などと言いながら。

「グリーンスリーブス」のメロディは相変わらず流れ続けていた。

・・・ワタクシがUFOキャッチャーで初ゲットしたのは、さらに3年後の1992年のことだった。  

Posted by 植野 丈 (吉松真幸) at 16:03Comments(0)89→91