2017年11月13日
心筋梗塞日記(14) 仕事に復帰
11月5日まで9日間の自宅療養をしてから、6日の月曜日より職場に復帰しました。
それより前に、2日の木曜日には髪を切りました。
心筋梗塞から回復して、心から生まれ変わった気がしていたのですが、頭は以前のままと言うよりも伸び放題になってしまっていたのです。
思い切って、いわゆるスポーツ刈りにして、さっぱりしました。
5日の日曜日には、ユニクロでバッグを買いました。
今まで使っていたリュックは、もう何年も前に建設作業員をしていた時にナフコで800円くらいで買ったもので、その時がしのげれば良いと思っていたのに、予想外の長寿命となりました。
しかしそれも痛みが目立つようになってきたので、この際に買い換える事にしました。
新しいバッグは、リュックにもショルダーバッグにも手提げにもなる3ウェイバッグで、前から欲しかったものです。
そして、久々の出勤。
職場にはいろいろと負担もかけたので、快気祝いとしてヤナギムラのクッキーも持っていきました。
時間は、以前同様の始発電車。もうその次の電車からは通学生で混雑して座れなくなるし、やはり朝の時間を有効活用したいという思いも以前と変わらずありました。
その代わり、自宅療養中に所長と相談して、当面はほぼ定時で帰れるようにしてもらいました。
やはり、命あってこそのものだから。
そうして1週間、働いてみましたが、心臓の機能が戻っていないだけでなく、頭と身体が慣れていないのもあってか、金曜日には結構しんどい感じがありました。
それも、徐々に慣れていくのでしょう。
というわけで、本日11月13日の月曜日、職場復帰2週目になりました。
なかなかにイレギュラーな案件が立て続いてハードな一日でしたが、先週の月曜日よりは疲れもなくやり通せたと思います。
それより前に、2日の木曜日には髪を切りました。
心筋梗塞から回復して、心から生まれ変わった気がしていたのですが、頭は以前のままと言うよりも伸び放題になってしまっていたのです。
思い切って、いわゆるスポーツ刈りにして、さっぱりしました。
5日の日曜日には、ユニクロでバッグを買いました。
今まで使っていたリュックは、もう何年も前に建設作業員をしていた時にナフコで800円くらいで買ったもので、その時がしのげれば良いと思っていたのに、予想外の長寿命となりました。
しかしそれも痛みが目立つようになってきたので、この際に買い換える事にしました。
新しいバッグは、リュックにもショルダーバッグにも手提げにもなる3ウェイバッグで、前から欲しかったものです。
そして、久々の出勤。
職場にはいろいろと負担もかけたので、快気祝いとしてヤナギムラのクッキーも持っていきました。
時間は、以前同様の始発電車。もうその次の電車からは通学生で混雑して座れなくなるし、やはり朝の時間を有効活用したいという思いも以前と変わらずありました。
その代わり、自宅療養中に所長と相談して、当面はほぼ定時で帰れるようにしてもらいました。
やはり、命あってこそのものだから。
そうして1週間、働いてみましたが、心臓の機能が戻っていないだけでなく、頭と身体が慣れていないのもあってか、金曜日には結構しんどい感じがありました。
それも、徐々に慣れていくのでしょう。
というわけで、本日11月13日の月曜日、職場復帰2週目になりました。
なかなかにイレギュラーな案件が立て続いてハードな一日でしたが、先週の月曜日よりは疲れもなくやり通せたと思います。
2017年11月09日
心筋梗塞日記(13) 自宅療養しながら自分でリハビリ
10月27日に退院してからは、11月5日までの自宅療養に入りました。
毎日、午前と午後に軽くウォーキング。徐々に距離を伸ばして、最終的には自宅と最寄り駅との間の往復も問題ない事を確かめました。
平日の朝は、出勤するツマと保育園に登園する子供たちを車に乗せて、送っていきました。
昼間は、どうせ時間ができたのだから、買ったままで読んでいない本を一気に読もうと思っていたのですが、入院中に始めたナンクロの雑誌の続きに没頭してしまいました
あ、でも、こうの史代さんの「この世界の片隅に」は読みました。
こうの史代さんの漫画は、「夕凪の街 桜の国」で深い感銘を受けたのですが、今回はさらに深い感動がありました。いずれアニメ版も観てみたいです。
昼食は、冷凍ご飯を解凍して、それからツマが用意してくれたおかずや、前の晩の残り。・・・あ、でも、退院翌日には移動販売のガミネカレーを食べました。鹿児島のカレーでは、ガミネカレーか、中央駅前のサフランがワタクシの一押し、二押しです。
午後は仕事を終えたツマを迎えに行きました。
そして夕方、子供たちが帰ってくると、その遊び相手。これが結構疲れます。
以前だったら、もっと身体を動かすような遊びをしてやっていたのですが、ムスメもワタクシの身体が以前とは違う事を察しているようで、お絵かきやおままごと、絵本の読み聞かせが中心。
ワタクシがずっと家にいるからか、ムスメもムスコもワタクシにべったり甘えきってしまうようになりました。
そして子供たちを抱っこしたり頭を撫でたりしながらまた思うのは、「ああ、生きていてよかった」という事。
特に1歳の長男に対しては、父親のワタクシのカオを覚える前に別れてしまうという事にならずに済んで、もし神様仏様がいるなら、本当に感謝です。
毎日、午前と午後に軽くウォーキング。徐々に距離を伸ばして、最終的には自宅と最寄り駅との間の往復も問題ない事を確かめました。
平日の朝は、出勤するツマと保育園に登園する子供たちを車に乗せて、送っていきました。
昼間は、どうせ時間ができたのだから、買ったままで読んでいない本を一気に読もうと思っていたのですが、入院中に始めたナンクロの雑誌の続きに没頭してしまいました
あ、でも、こうの史代さんの「この世界の片隅に」は読みました。
こうの史代さんの漫画は、「夕凪の街 桜の国」で深い感銘を受けたのですが、今回はさらに深い感動がありました。いずれアニメ版も観てみたいです。
昼食は、冷凍ご飯を解凍して、それからツマが用意してくれたおかずや、前の晩の残り。・・・あ、でも、退院翌日には移動販売のガミネカレーを食べました。鹿児島のカレーでは、ガミネカレーか、中央駅前のサフランがワタクシの一押し、二押しです。
午後は仕事を終えたツマを迎えに行きました。
そして夕方、子供たちが帰ってくると、その遊び相手。これが結構疲れます。
以前だったら、もっと身体を動かすような遊びをしてやっていたのですが、ムスメもワタクシの身体が以前とは違う事を察しているようで、お絵かきやおままごと、絵本の読み聞かせが中心。
ワタクシがずっと家にいるからか、ムスメもムスコもワタクシにべったり甘えきってしまうようになりました。
そして子供たちを抱っこしたり頭を撫でたりしながらまた思うのは、「ああ、生きていてよかった」という事。
特に1歳の長男に対しては、父親のワタクシのカオを覚える前に別れてしまうという事にならずに済んで、もし神様仏様がいるなら、本当に感謝です。
2017年11月08日
心筋梗塞日記(12) ここで軽く総括
ワタクシは、自分では心筋梗塞にならないか、なってももっと歳がいってからだと思っていました。
体重が100キロ超だった不健康時代は20年以上も昔の話で、現在は通勤の途中で毎日歩き+自転車の1時間くらいの運動をして、時にはフルマラソンも走って直近の昨年のいぶすき菜の花マラソンでは自己ベストを更新して、健康診断の結果もほぼ問題なしで。
今だけを見れば健康そのものでした。
しかし昔の不摂生によって身体が負ったダメージは、地下に埋められた時限爆弾のように姿を見せずに時を待ち、そしてそれが炸裂して、今回のような生命さえ危ないような状態に陥ったのです。
健康に関しては、今が良くても前科があれば、その進行を遅らせることはできても逆戻りはできないという事を、痛感させられました。
そして今回は、前兆ともいうべき狭心症に似た症状が2か月も前から現れていたのに、日々の忙しさからくる疲れとその蓄積だと思って、放置してしまった事が悔やまれてなりません。
疲れは身体のSOSとは言いますが、まさにそれでした。
今、ACのCMで、息切れがしたら心臓弁膜症を疑って専門医の診断を受けましょう、みたいなのがテレビで流れていますが、それと同じく、動悸や息切れ、胸の痛みや違和感、全身のだるさが続いて、それが休養しても取れない場合も、専門医の診断を受ける事をお勧めします。
それにしても今回は、自分では内科的な症状だと思って内科医院に行ったのですが、そこに循環器科が併設されていた事で、命拾いをしたと思います
というのも、ワタクシの父が、やはり胸の違和感などを感じて内科のクリニックを受診したのですが、簡単な診察の後に胃薬などを処方されて、その1か月後に大きな心臓発作に見舞われて、54歳の若さで突然亡くなってしまった経験があるからです。
今回のワタクシの場合は、問診の時点で「これはおかしい」と気付いてもらえたようで、心電図と心エコーに血液検査まで行なって、その結果をもって大病院へ救急搬送されて、緊急の処置を受けて、助かりました。
心臓がおかしいと思ったら、内科ではなく循環器科が確実です。
そうやって失くすはずの命を失くさずに済んだのですが、薬は一生飲み続けなければなりません。
健康管理、栄養管理にもある程度以上の注意が必要となりました。
運動も、好きだったマラソンや登山はいつ再開できるのか、見通しが立ちません。
そんなワタクシだから、言えます。
若い時から、身体は大切にしなければならない!
症状が若さでカバーできても、年齢を重ねると途端にそれは顕在化する!
体重が100キロ超だった不健康時代は20年以上も昔の話で、現在は通勤の途中で毎日歩き+自転車の1時間くらいの運動をして、時にはフルマラソンも走って直近の昨年のいぶすき菜の花マラソンでは自己ベストを更新して、健康診断の結果もほぼ問題なしで。
今だけを見れば健康そのものでした。
しかし昔の不摂生によって身体が負ったダメージは、地下に埋められた時限爆弾のように姿を見せずに時を待ち、そしてそれが炸裂して、今回のような生命さえ危ないような状態に陥ったのです。
健康に関しては、今が良くても前科があれば、その進行を遅らせることはできても逆戻りはできないという事を、痛感させられました。
そして今回は、前兆ともいうべき狭心症に似た症状が2か月も前から現れていたのに、日々の忙しさからくる疲れとその蓄積だと思って、放置してしまった事が悔やまれてなりません。
疲れは身体のSOSとは言いますが、まさにそれでした。
今、ACのCMで、息切れがしたら心臓弁膜症を疑って専門医の診断を受けましょう、みたいなのがテレビで流れていますが、それと同じく、動悸や息切れ、胸の痛みや違和感、全身のだるさが続いて、それが休養しても取れない場合も、専門医の診断を受ける事をお勧めします。
それにしても今回は、自分では内科的な症状だと思って内科医院に行ったのですが、そこに循環器科が併設されていた事で、命拾いをしたと思います
というのも、ワタクシの父が、やはり胸の違和感などを感じて内科のクリニックを受診したのですが、簡単な診察の後に胃薬などを処方されて、その1か月後に大きな心臓発作に見舞われて、54歳の若さで突然亡くなってしまった経験があるからです。
今回のワタクシの場合は、問診の時点で「これはおかしい」と気付いてもらえたようで、心電図と心エコーに血液検査まで行なって、その結果をもって大病院へ救急搬送されて、緊急の処置を受けて、助かりました。
心臓がおかしいと思ったら、内科ではなく循環器科が確実です。
そうやって失くすはずの命を失くさずに済んだのですが、薬は一生飲み続けなければなりません。
健康管理、栄養管理にもある程度以上の注意が必要となりました。
運動も、好きだったマラソンや登山はいつ再開できるのか、見通しが立ちません。
そんなワタクシだから、言えます。
若い時から、身体は大切にしなければならない!
症状が若さでカバーできても、年齢を重ねると途端にそれは顕在化する!
2017年11月07日
心筋梗塞日記(11) 何はともあれ退院!
心臓へのダメージが予想以上に大きくても、とりあえず安心できる状態になって、入院12日目の10月27日には晴れて退院しました。
ツマが朝のうちに迎えにきてくれて、まずは入院費用を精算してくれました。
費用は10万円弱。
本当はもっとかかるはずのところを、高額医療費制度というものを使って、それくらいに抑えました。
これは、医療費が高額になる場合に、月ごとに設定された限度額内に収まるように、補助を受けられる制度です。
幸いツマがこの制度を知っていたので、入院してすぐに勤務先を通して保険組合への手続きがなされ、退院までに間に合いました。
(もし間に合わなかったら、まずは自分で負担して、後で差額分が支払われます)
ちなみに病院の事務職員の方がこの制度の説明に来てくれたのは、入院から結構日にちが過ぎてからの事でしたから、それから手続きしていたら間に合わなかったかもしれません。
話を戻して。
ツマとワタクシは別室に呼ばれ、現状の病状説明と、退院後の生活についての指導を受けました。
それから、スタッフの方々に見送られるように、退院。
妻が運転するクルマの窓から見える光景が、何もかもが新鮮で、輝いて見えました。
誇張でもなんでもなく。
ひょっとしたらもうこの世にはいなかったかもしれなかった、そんな思いが、そうさせたのでしょう。
帰り道、ツマが以前から行きたかったというカフェで昼食。
山の中の隠れ家みたいなカフェのオープンテラスで、ほぼ2週間ぶりのまともな食事。
病院の食事もなかなかのものだと思っていましたが、やはり天気のいい日に景色のいいところで食べるお店の食事は、感動的なくらいに美味しかったです。
それからさらにワタクシの実家に寄って、帰宅。
その夜は、買ってきたお寿司で夕食。
お酒がないのが残念でなりませんでしたが、そればかりは仕方ありません。
ムスメは、寝る直前まで「お父さん、お父さん」とじゃれついてきました。
とにかく、行きて帰ってきたなと、実感しました。
ツマが朝のうちに迎えにきてくれて、まずは入院費用を精算してくれました。
費用は10万円弱。
本当はもっとかかるはずのところを、高額医療費制度というものを使って、それくらいに抑えました。
これは、医療費が高額になる場合に、月ごとに設定された限度額内に収まるように、補助を受けられる制度です。
幸いツマがこの制度を知っていたので、入院してすぐに勤務先を通して保険組合への手続きがなされ、退院までに間に合いました。
(もし間に合わなかったら、まずは自分で負担して、後で差額分が支払われます)
ちなみに病院の事務職員の方がこの制度の説明に来てくれたのは、入院から結構日にちが過ぎてからの事でしたから、それから手続きしていたら間に合わなかったかもしれません。
話を戻して。
ツマとワタクシは別室に呼ばれ、現状の病状説明と、退院後の生活についての指導を受けました。
それから、スタッフの方々に見送られるように、退院。
妻が運転するクルマの窓から見える光景が、何もかもが新鮮で、輝いて見えました。
誇張でもなんでもなく。
ひょっとしたらもうこの世にはいなかったかもしれなかった、そんな思いが、そうさせたのでしょう。
帰り道、ツマが以前から行きたかったというカフェで昼食。
山の中の隠れ家みたいなカフェのオープンテラスで、ほぼ2週間ぶりのまともな食事。
病院の食事もなかなかのものだと思っていましたが、やはり天気のいい日に景色のいいところで食べるお店の食事は、感動的なくらいに美味しかったです。
それからさらにワタクシの実家に寄って、帰宅。
その夜は、買ってきたお寿司で夕食。
お酒がないのが残念でなりませんでしたが、そればかりは仕方ありません。
ムスメは、寝る直前まで「お父さん、お父さん」とじゃれついてきました。
とにかく、行きて帰ってきたなと、実感しました。
2017年11月05日
心筋梗塞日記(10) ドラゴンボールを手に入れた?
心臓リハビリは、運動中の心電図や血中酸素濃度、運動前後の血圧や心拍数の変化を見ながら、徐々に負荷を上げていきます。
初めは病棟の廊下を往復するだけだったのですが、入院7日目の10月22日から、エアロバイク(自転車漕ぎ)が始まりました。
初日と翌日は、20Wの負荷で20分を午前と午後の計2回。
しかし心電図は乱れず、運動前後の血圧も心拍数も特に上昇はしませんでした。
日頃から運動していて、フルマラソンも走っている実力が、そんなところにも現れたと、ワタクシは内心、ほくそ笑んでいました。
・・・後でそれは儚い幻想であったと、現実を突きつけられる事になりましたが。
とにかく、まだまだ負荷はかけられるとリハさんも判断して、3日目(10月24日)の午前中には40Wの30分に、午後には60Wの30分に、負荷は段階的に増やされていきました。
それにしても、リハビリテーション室の中で、窓の外を向いているわけでもないバイクを漕ぎ続けるのも、結構退屈でした。
近い将来には、バーチャル・リアリティで、風景の変化を楽しみながら自転車漕げるんだろうかな、などと思ったりしました。
退屈である事を何の気なしに口にすると、リハさんがリハビリ室に備え付けの「ドラゴンボール」の単行本を持ってきてくれました。
「これを読みながらでもいいですよ」と。
実はワタクシ、昭和48年生まれという世代なのに、「ドラゴンボール」をほとんど読んだ事がありませんでした。
ワタクシのイモウトは結構読んでいて、アニメも録画していたくらいなのですがね。
それには訳があって、早い話が食わず嫌いの一種なのです。
「ドラゴンボール」の前の「Dr. スランプ アラレちゃん」がワタクシにとってあまりに面白すぎて、その後の「ドラゴンボール」が、(連載当初は)テンポが悪く、面白さも感じられず、結局ワタクシ自身が自分から遠ざけ続けてきた訳なのです。
で、30年遅れで「ドラゴンボール」をマトモに読んでみたのですが・・・
・・・いやぁ、面白かったです!
やっぱり鳥山明は天才だと思わざるを得なかったですし、「ドラゴンボール」のいまだに続く人気も納得でした。
危うく「ドラゴンボール」の面白さを知らずに死んじゃうところでしたが、不思議な縁で出会えて良かったです。
そうして、退院までに5巻まで、自転車漕ぎながら読んでしまいました。
リハビリ最終日までの5日間にペダルを漕いだ負荷量は、距離に換算すると36.6km、東海道五十三次で言えば日本橋から戸塚の手前くらいだという事でした。
25日に、心臓がどれだけの負荷に耐えられるかの試験を受けるまでは、そんな感じでリハビリを楽しんでいました。
初めは病棟の廊下を往復するだけだったのですが、入院7日目の10月22日から、エアロバイク(自転車漕ぎ)が始まりました。
初日と翌日は、20Wの負荷で20分を午前と午後の計2回。
しかし心電図は乱れず、運動前後の血圧も心拍数も特に上昇はしませんでした。
日頃から運動していて、フルマラソンも走っている実力が、そんなところにも現れたと、ワタクシは内心、ほくそ笑んでいました。
・・・後でそれは儚い幻想であったと、現実を突きつけられる事になりましたが。
とにかく、まだまだ負荷はかけられるとリハさんも判断して、3日目(10月24日)の午前中には40Wの30分に、午後には60Wの30分に、負荷は段階的に増やされていきました。
それにしても、リハビリテーション室の中で、窓の外を向いているわけでもないバイクを漕ぎ続けるのも、結構退屈でした。
近い将来には、バーチャル・リアリティで、風景の変化を楽しみながら自転車漕げるんだろうかな、などと思ったりしました。
退屈である事を何の気なしに口にすると、リハさんがリハビリ室に備え付けの「ドラゴンボール」の単行本を持ってきてくれました。
「これを読みながらでもいいですよ」と。
実はワタクシ、昭和48年生まれという世代なのに、「ドラゴンボール」をほとんど読んだ事がありませんでした。
ワタクシのイモウトは結構読んでいて、アニメも録画していたくらいなのですがね。
それには訳があって、早い話が食わず嫌いの一種なのです。
「ドラゴンボール」の前の「Dr. スランプ アラレちゃん」がワタクシにとってあまりに面白すぎて、その後の「ドラゴンボール」が、(連載当初は)テンポが悪く、面白さも感じられず、結局ワタクシ自身が自分から遠ざけ続けてきた訳なのです。
で、30年遅れで「ドラゴンボール」をマトモに読んでみたのですが・・・
・・・いやぁ、面白かったです!
やっぱり鳥山明は天才だと思わざるを得なかったですし、「ドラゴンボール」のいまだに続く人気も納得でした。
危うく「ドラゴンボール」の面白さを知らずに死んじゃうところでしたが、不思議な縁で出会えて良かったです。
そうして、退院までに5巻まで、自転車漕ぎながら読んでしまいました。
リハビリ最終日までの5日間にペダルを漕いだ負荷量は、距離に換算すると36.6km、東海道五十三次で言えば日本橋から戸塚の手前くらいだという事でした。
25日に、心臓がどれだけの負荷に耐えられるかの試験を受けるまでは、そんな感じでリハビリを楽しんでいました。
2017年11月04日
心筋梗塞日記(9) 売店でパズル雑誌をゲットした
入院5日目の10月20日に、ツマから家に溜まっていた4日分の新聞を差し入れてもらいましたが、新聞に載っているパズル問題を解くのも、いい暇つぶしになりました。
しかしそれもあっという間に解いてしまいました。
新聞記事もその日のうちに読み終わってしまい、再び暇を持て余すようになりました。
しかし翌日、10月21日、病院の建物内であれば自由に行動しても良いと許可が出ました。
しかし、階段の使用は禁止、長時間の移動も禁止という条件つきでしたが。
もう早速、売店に行き、パズル雑誌を買いました。
本当は、数独のような数字を入れるパズルが欲しかったのですが、ついうっかり、クロスワードの変形版とも言えるナンクロの雑誌を買ってしまいましたが・・・。
けれども他に何もする事のない入院生活のこと、のめり込んでしまい、退院するまでの1週間あまりの間に、一冊の半分超は解き切ってしまいました。
ちなみにこのパズル雑誌、懸賞が付いていて、正解者の中から抽選で家電製品や雑貨などが当たるようになっています。
心筋梗塞という不運に見舞われたから、その埋め合わせをするように運命の力が働いて、当たったり・・・しないでしょうね。
しかしそれもあっという間に解いてしまいました。
新聞記事もその日のうちに読み終わってしまい、再び暇を持て余すようになりました。
しかし翌日、10月21日、病院の建物内であれば自由に行動しても良いと許可が出ました。
しかし、階段の使用は禁止、長時間の移動も禁止という条件つきでしたが。
もう早速、売店に行き、パズル雑誌を買いました。
本当は、数独のような数字を入れるパズルが欲しかったのですが、ついうっかり、クロスワードの変形版とも言えるナンクロの雑誌を買ってしまいましたが・・・。
けれども他に何もする事のない入院生活のこと、のめり込んでしまい、退院するまでの1週間あまりの間に、一冊の半分超は解き切ってしまいました。
ちなみにこのパズル雑誌、懸賞が付いていて、正解者の中から抽選で家電製品や雑貨などが当たるようになっています。
心筋梗塞という不運に見舞われたから、その埋め合わせをするように運命の力が働いて、当たったり・・・しないでしょうね。
2017年11月03日
心筋梗塞日記(8) 動画で4歳の娘を泣かしてしまった
ツマガ面会に来る前日の10月19日木曜日、夕食後に談話室に行き、動画を自撮りしました。
内容は、4歳のムスメと1歳のムスコに、
「元気してる〜? お父さんまだまだ入院するけど、お母さんの言う事をちゃんと聞いて、いい子で待っててね〜」
と呼びかけるもの。
しかし正直、このビデオメッセージがどれだけふたりの心に届くかはついては、いささか懐疑的でした。
まず、小さすぎるムスコには、おそらくワタクシが入院したという事実さえ理解できていないでしょうし。
そして最近は親の言う事も周りの状況も理解できるようになっているムスメも、どうなんだろう? と。
ムスメにとっては、ワタクシはよく怒る怖い存在のようなのです。
ワタクシだって怒りたくて怒っているのではないのですがね・・・でも、放っておくと将来のためにならないであろう事や、命や身の安全に関わる事は、その都度叱らなければならないというポリシーでやっているのです。
もちろん、叩くとか汚い言葉で罵るとかはせず、しかしその代わり、可能な限り強い口調で「メッ!」とか「コラ!」とか言って、じっと目を見つめるようにしています。
(こちらの方がいちばん効果的なようです ※個人の感想です)
とにかく、うるさく怒る人間がいなくて、せいせいしていると言うか、のびのびした気分になっているのではないかと思われたのです。
しかしそれは、全くの思い違いでした。
ムスメはツマのスマホでビデオメッセージを見て、最初はテレビ電話が繋がっていると思って、画面のワタクシに「お父さん」と呼びかけて、、しかも「お父さん、いつ帰ってくるの?」と尋ねたらしいです。
けれどもビデオだと分かると、泣き出してしまったとか・・・。
その話を聞いて、ついついワタクシも涙ぐんでしまいました。
ついでに言うと、その後もムスメは毎晩、寝る前に「お父さんまだ帰ってこないの? いつ帰ってくるの?」
とツマに泣きながら聞いてきたのだそうです。
ひょっとしたら死んでいたかもしれないワタクシでしたが、死なずにいて良かったと思えた事のひとつでした。
内容は、4歳のムスメと1歳のムスコに、
「元気してる〜? お父さんまだまだ入院するけど、お母さんの言う事をちゃんと聞いて、いい子で待っててね〜」
と呼びかけるもの。
しかし正直、このビデオメッセージがどれだけふたりの心に届くかはついては、いささか懐疑的でした。
まず、小さすぎるムスコには、おそらくワタクシが入院したという事実さえ理解できていないでしょうし。
そして最近は親の言う事も周りの状況も理解できるようになっているムスメも、どうなんだろう? と。
ムスメにとっては、ワタクシはよく怒る怖い存在のようなのです。
ワタクシだって怒りたくて怒っているのではないのですがね・・・でも、放っておくと将来のためにならないであろう事や、命や身の安全に関わる事は、その都度叱らなければならないというポリシーでやっているのです。
もちろん、叩くとか汚い言葉で罵るとかはせず、しかしその代わり、可能な限り強い口調で「メッ!」とか「コラ!」とか言って、じっと目を見つめるようにしています。
(こちらの方がいちばん効果的なようです ※個人の感想です)
とにかく、うるさく怒る人間がいなくて、せいせいしていると言うか、のびのびした気分になっているのではないかと思われたのです。
しかしそれは、全くの思い違いでした。
ムスメはツマのスマホでビデオメッセージを見て、最初はテレビ電話が繋がっていると思って、画面のワタクシに「お父さん」と呼びかけて、、しかも「お父さん、いつ帰ってくるの?」と尋ねたらしいです。
けれどもビデオだと分かると、泣き出してしまったとか・・・。
その話を聞いて、ついついワタクシも涙ぐんでしまいました。
ついでに言うと、その後もムスメは毎晩、寝る前に「お父さんまだ帰ってこないの? いつ帰ってくるの?」
とツマに泣きながら聞いてきたのだそうです。
ひょっとしたら死んでいたかもしれないワタクシでしたが、死なずにいて良かったと思えた事のひとつでした。
2017年11月01日
心筋梗塞日記(7) そう~っと心臓リハビリ開始
入院2日目の夕食後、早くも病室が変わりました。
急性期病棟なのは変わりはないのですが、HCUから普通の病室に変更。
それはHCUを少しでも空けておくためという事にはなっていましたが、看護師さんからの説明ではHCUにいる人の中でも特に状態のよい人から出て行ってもらっている・・・という事で、つまりはワタクシは自分が思っている以上に快方に向かっているのではないかという期待が持ててきました。
実際、いったんは起こった冠動脈の閉塞が幸運にも少し緩和されてわずかずつでも心臓への血流が確保された事と、処置が早かった事で心臓へのダメージが最小限に抑えられたとの事でした。
あと、これはワタクシの素人考えですが、日ごろから運動して心肺を鍛えていた事も、早い回復につながっているのではないかとも思いました。しかしあながち外れてもいないでしょう。
起き上がってベッドサイドに腰掛ける程度の運動も許可されて、入院期間も2週間かそれ以内に短くなりそうだという見通しも、ワタクシにとっては光明に思えました。
心電図と血中酸素濃度計の装置も、ポケットに入るポータブルに変わりました。聞けば、ナースステーションに電波を飛ばしてデータを送り、そこで集中的に監視をしているそうです。
それはそうと、スマホの充電器を持ってきてもらって電源問題は解決しましたが、パケットの制限問題に気が付きました。
ワタクシは通勤途中や外出先など、Wi-Fi環境にない場所ではゲームもしないし動画も見ないので、データ通信の上限を2GBのコースにしていたのですが、気が付けばたった2日間でデータ通信容量の上限に一気に迫っていました。
病室が変わり、テレビも20時間1,000円のテレビカードでなければ見られなくなってしまい、どうやって暇をつぶすかについて真剣に悩み始めました。
10月18日、入院3日目。
病棟内の同一フロアに限るという条件付きで歩行の許可が下り、やっとトイレの自由を得ました。点滴ハンガーも一緒に転がして行かないといけないという制限はありましたが。
同時に心臓リハビリが始まりました。
初日は、病棟の廊下(片道60m)をゆっくり一往復するとことから始めました。
運動前後の心拍数や血圧の変化を見て、どこまで心臓が運動負荷に耐えられるかを手探りで見ていきながら、毎日少しずつ負荷を上げていく、との事でした。
リハさんと呼ばれる療法士さん付き添いのもと、点滴ハンガーをコロコロ引きながら、廊下を往復。そのようなリハビリが、午前と午後の1日2回。
10月19日、入院4日目。
運動による血圧と心拍数の変化を見て、廊下の往復回数が2往復に増えました。
点滴も外れて、自由度がさらに大きくなった気分になりました。
しかし移動は病棟内に限られ、売店に暇つぶしの何かを買いに行く事はまだできません。
テレビカードの残量と、スマホのデータ通信量の残量とにらめっこしながら、何もせずにベッドで横になっているしかないのは、本当にしんどい。
10月20日、入院5日目。
急性期病棟から、包括病棟と呼ばれる、退院準備に向けた病棟へ移動。
リハビリも病棟の廊下を4往復になりましたが、行動制限は相変わらず。
ツマが仕事の休みを取って面会に来てくれたので、家に溜まっていた新聞を4日分、持ってきてもらい、それでそれから後の退屈が少しは紛れました。
また、栄養指導をツマと一緒に受けました。
急性期病棟なのは変わりはないのですが、HCUから普通の病室に変更。
それはHCUを少しでも空けておくためという事にはなっていましたが、看護師さんからの説明ではHCUにいる人の中でも特に状態のよい人から出て行ってもらっている・・・という事で、つまりはワタクシは自分が思っている以上に快方に向かっているのではないかという期待が持ててきました。
実際、いったんは起こった冠動脈の閉塞が幸運にも少し緩和されてわずかずつでも心臓への血流が確保された事と、処置が早かった事で心臓へのダメージが最小限に抑えられたとの事でした。
あと、これはワタクシの素人考えですが、日ごろから運動して心肺を鍛えていた事も、早い回復につながっているのではないかとも思いました。しかしあながち外れてもいないでしょう。
起き上がってベッドサイドに腰掛ける程度の運動も許可されて、入院期間も2週間かそれ以内に短くなりそうだという見通しも、ワタクシにとっては光明に思えました。
心電図と血中酸素濃度計の装置も、ポケットに入るポータブルに変わりました。聞けば、ナースステーションに電波を飛ばしてデータを送り、そこで集中的に監視をしているそうです。
それはそうと、スマホの充電器を持ってきてもらって電源問題は解決しましたが、パケットの制限問題に気が付きました。
ワタクシは通勤途中や外出先など、Wi-Fi環境にない場所ではゲームもしないし動画も見ないので、データ通信の上限を2GBのコースにしていたのですが、気が付けばたった2日間でデータ通信容量の上限に一気に迫っていました。
病室が変わり、テレビも20時間1,000円のテレビカードでなければ見られなくなってしまい、どうやって暇をつぶすかについて真剣に悩み始めました。
10月18日、入院3日目。
病棟内の同一フロアに限るという条件付きで歩行の許可が下り、やっとトイレの自由を得ました。点滴ハンガーも一緒に転がして行かないといけないという制限はありましたが。
同時に心臓リハビリが始まりました。
初日は、病棟の廊下(片道60m)をゆっくり一往復するとことから始めました。
運動前後の心拍数や血圧の変化を見て、どこまで心臓が運動負荷に耐えられるかを手探りで見ていきながら、毎日少しずつ負荷を上げていく、との事でした。
リハさんと呼ばれる療法士さん付き添いのもと、点滴ハンガーをコロコロ引きながら、廊下を往復。そのようなリハビリが、午前と午後の1日2回。
10月19日、入院4日目。
運動による血圧と心拍数の変化を見て、廊下の往復回数が2往復に増えました。
点滴も外れて、自由度がさらに大きくなった気分になりました。
しかし移動は病棟内に限られ、売店に暇つぶしの何かを買いに行く事はまだできません。
テレビカードの残量と、スマホのデータ通信量の残量とにらめっこしながら、何もせずにベッドで横になっているしかないのは、本当にしんどい。
10月20日、入院5日目。
急性期病棟から、包括病棟と呼ばれる、退院準備に向けた病棟へ移動。
リハビリも病棟の廊下を4往復になりましたが、行動制限は相変わらず。
ツマが仕事の休みを取って面会に来てくれたので、家に溜まっていた新聞を4日分、持ってきてもらい、それでそれから後の退屈が少しは紛れました。
また、栄養指導をツマと一緒に受けました。
2017年11月01日
心筋梗塞日記(6) 病院の朝食で「ああ生きているな」と実感
救急搬送され、緊急に心臓カテーテルの処置を受け、当然の事ながらそのまま入院となりました。
しかし、それにしても、ただでさえ絶対安静なのに、いろんなケーブルやチューブに巻きつかれ、物理的にも身動き取れない状態。
病院のベッドのマットレスはフカフカ過ぎて、仰向けになった時の背骨の上下方向への曲がり方が不自然になるのか、腰や首がだんだん痛くなってきました。
それに、定期的に看護師さんの巡回があり、心電図や血中酸素、点滴のチェックや、カテーテルを入れた手首の止血バンドを緩めたりなどしたので、なかなか眠れませんでした。
眠れても浅い眠りのまま、朝の6時。
病棟全体が活動を始めたようで、看護師さんたちが一斉に朝の巡回に各病室を回るなど、にぎやかになってきました。
そして、朝の7時に朝食。
前の晩に、クリップ式になっている血中酸素濃度計のセンサーがたまたま指から外れて、それは自分で気が付いて付け直したのですが、その時に警報が鳴らなかったので、それは一時的になら外しても大丈夫なんだなと判断。
朝食の間だけセンサーを外し、左手で先割れスプーンを使って食事ができました。
病院の食事で、しかも減塩食なので町の定食屋さんのおかずと比べたら味気ない事この上なかったのですが、しかし白いご飯は相変わらず美味しく炊けていて、一口一口噛みしめながら食べていると、
「ああ、生きているな~死なずに済んでよかったな~」
と、初めて実感が持てました。
そして、私の心臓の状態について、病院に搬送される前に1回以上は心臓に血液を送る冠動脈が完全に閉塞した可能性があり、普通だったらそのまま心臓が停まっていたかもしれないけど、運よく閉じた血管が少しだけ開いて、わずかずつでも血液が送られていた・・・と説明を受けていたのを思い出して、ゾッとしました。
ご飯を食べながら、生きている実感を強く感じ、同時に死への恐怖が湧き起こってきたのです。
前日、処置の前に、まるで死への恐怖を感じなかったのとは、全く異なる心の変化でした。
入院2日目は、午前中にさまざまな検査をベッドに横になったまま行ない、看護師さんに身体の清拭もしてもらってサッパリしました。
清拭してもらうついでに導尿チューブも外され、紙オムツも外され、普通の下着と病院のパジャマに着替えさせてもらいました。
それでも絶対安静は継続で、導尿チューブ以外のケーブルやチューブに巻きつかれた状態は変わらず、小用は尿器(いわゆるシビン)で、大はその時になったらナースコールで呼んで来てもらう、というのには変わりはありませんでしたが、しかし日常への復帰に向けて心理的には大きく前進したような気分になりました。
昼にハハオヤとイモウトが見舞いに来てくれ、ツマから託されたスマホの充電器を受け取りました。
スマホは病室内では一応許可(あるいは黙認?)されており、眠れないのを紛らせようと、不自由な手でスマホを度々いじっていたら、電池残量が瞬く間に減っていっていたところだったので、充電器の差し入れは助かりました。
午後には暇をもてあます状態になったので、スマホやテレビをずっと見ていました。
HCU(準集中治療室)ではテレビは無料で、テレビモニターはベッドに寝た状態でちょうど良い角度になるように天井から吊下げられているので、楽でした。
テレビのワイドショーは、衆院選の話題、事件、芸能ネタ・・・芸能ネタは倒れる前から興味がなかったのがますますどうでもよくなっていましたが、なんとなく見ていました。
・・・暇で暇で仕方がなかったから。
しかしふと、もし自分が死んでしまっていても、こんなふうに世の中は流れていくんだな~と、なんとなく思いました。
しかし、それにしても、ただでさえ絶対安静なのに、いろんなケーブルやチューブに巻きつかれ、物理的にも身動き取れない状態。
病院のベッドのマットレスはフカフカ過ぎて、仰向けになった時の背骨の上下方向への曲がり方が不自然になるのか、腰や首がだんだん痛くなってきました。
それに、定期的に看護師さんの巡回があり、心電図や血中酸素、点滴のチェックや、カテーテルを入れた手首の止血バンドを緩めたりなどしたので、なかなか眠れませんでした。
眠れても浅い眠りのまま、朝の6時。
病棟全体が活動を始めたようで、看護師さんたちが一斉に朝の巡回に各病室を回るなど、にぎやかになってきました。
そして、朝の7時に朝食。
前の晩に、クリップ式になっている血中酸素濃度計のセンサーがたまたま指から外れて、それは自分で気が付いて付け直したのですが、その時に警報が鳴らなかったので、それは一時的になら外しても大丈夫なんだなと判断。
朝食の間だけセンサーを外し、左手で先割れスプーンを使って食事ができました。
病院の食事で、しかも減塩食なので町の定食屋さんのおかずと比べたら味気ない事この上なかったのですが、しかし白いご飯は相変わらず美味しく炊けていて、一口一口噛みしめながら食べていると、
「ああ、生きているな~死なずに済んでよかったな~」
と、初めて実感が持てました。
そして、私の心臓の状態について、病院に搬送される前に1回以上は心臓に血液を送る冠動脈が完全に閉塞した可能性があり、普通だったらそのまま心臓が停まっていたかもしれないけど、運よく閉じた血管が少しだけ開いて、わずかずつでも血液が送られていた・・・と説明を受けていたのを思い出して、ゾッとしました。
ご飯を食べながら、生きている実感を強く感じ、同時に死への恐怖が湧き起こってきたのです。
前日、処置の前に、まるで死への恐怖を感じなかったのとは、全く異なる心の変化でした。
入院2日目は、午前中にさまざまな検査をベッドに横になったまま行ない、看護師さんに身体の清拭もしてもらってサッパリしました。
清拭してもらうついでに導尿チューブも外され、紙オムツも外され、普通の下着と病院のパジャマに着替えさせてもらいました。
それでも絶対安静は継続で、導尿チューブ以外のケーブルやチューブに巻きつかれた状態は変わらず、小用は尿器(いわゆるシビン)で、大はその時になったらナースコールで呼んで来てもらう、というのには変わりはありませんでしたが、しかし日常への復帰に向けて心理的には大きく前進したような気分になりました。
昼にハハオヤとイモウトが見舞いに来てくれ、ツマから託されたスマホの充電器を受け取りました。
スマホは病室内では一応許可(あるいは黙認?)されており、眠れないのを紛らせようと、不自由な手でスマホを度々いじっていたら、電池残量が瞬く間に減っていっていたところだったので、充電器の差し入れは助かりました。
午後には暇をもてあます状態になったので、スマホやテレビをずっと見ていました。
HCU(準集中治療室)ではテレビは無料で、テレビモニターはベッドに寝た状態でちょうど良い角度になるように天井から吊下げられているので、楽でした。
テレビのワイドショーは、衆院選の話題、事件、芸能ネタ・・・芸能ネタは倒れる前から興味がなかったのがますますどうでもよくなっていましたが、なんとなく見ていました。
・・・暇で暇で仕方がなかったから。
しかしふと、もし自分が死んでしまっていても、こんなふうに世の中は流れていくんだな~と、なんとなく思いました。
2017年10月31日
心筋梗塞日記(5) 起き上がるのもNGな絶対安静
心臓カテーテルによる処置は無事に終わり、処置室で簡単に病状の説明を受けました。
原因としては、もとから動脈硬化の傾向があり心臓の冠動脈にプラークができて血管が狭まったうえに、冠動脈が強く収縮(攣縮:れんしゅく)して閉塞してしまったと推定される事。
薬物による治療が可能と判断し、ステントと呼ばれる、血管を広げる管を挿入する事は行なわなかった事。
(処置前にはステントを入れる、と説明があった)
なお、薬は一生飲み続けなければならない。
退院まで2週間から4週間必要。
今後は様子を見ながら運動量や仕事量を決め、徐々に増やして日常に復帰していく。
・・・というものでした。
あと、ベッドから起き上がるような軽い動作でも、心臓への負担になってしまいかねないので、許可が出るまで絶対安静、とも言われました。
処置室から病室へも、ベッドに寝かされたまま移動。
廊下に掲げられた時計から、ERに搬送されてから2時間弱の時間が経過していた事を知りました。
病室は、HCU(準集中治療室)。隣がナースステーションになっていて、ベッドの枕元とナースステーションとの間にある窓から、こちらの様子を見る事ができるようになっています。
絶対安静なので、用便については、尿は導尿チューブを装着され、ベッド下のタンクに溜まるようになっていて、大の方についてはナースコールで呼ぶように、という事でした。
真っ裸に紙オムツに毛布だけ掛けられたのはそのままで、心電図、血中酸素濃度計のケーブル、点滴や酸素吸入のチューブに加え導尿チューブまで取り付けられ、身動き取ろうにも取れない状態。
なんとも惨めな気分になり、「ああ、最近は健康診断の結果も良かったのに」と嘆きにも似た思いも出てきましたが、やはり、若い頃の不摂生はその後にどれだけ健康的な生活を送ろうとしても、帳消しにするのは難しい。健康的な生活を送っていても、加齢による影響は避けられず、生活習慣の改善により、若い頃に受けた身体のダメージのさらなる進行を遅らせる事はできても、逆戻りにはできないのだなと悟りもしました。(たぶん重要な事なので強調しておく必要があると思います)
そんな事を考えている間に、外は暗くなり始め、そんな時、ツマがふたりの子供と義弟(ツマの弟)と一緒にお見舞いに来てくれました。
面会は短時間で、当面の衣類や身の回りのものだけ棚に置いて、みんな引き上げました。
(部屋を出てから、主治医から病状と今後の治療計画について説明を受けたそうです)
・・・結局、ムスメ(上の子)はベッドの足もとで陰になって見えず。ただ、ムスメの何か言う声が廊下を遠ざかるのだけが聞こえました。
その直後、夕食。
夕食から、通常の減塩食が認められたので、ちょうど昼食も無しできたため空腹だったので、助かりました。
ベッドを電動で少しずつ上体を起こしてもらい、ベッドの上を渡すように架けられたボードの上の夕食を食べました。
しかし・・・カテーテルを入れた右手首は固定されているし、左手の指には血中酸素濃度計のセンサーが付いているしで、食事には苦労しました。(本当は、言えば介助してもらえたらしいのですが、あえて・・・というかつまらない意地で言いませんでした)
幸いにも先割れスプーンが付いていたので、左手を使って食事をしましたが、空腹だったから以上に、白いご飯が美味しく思えました。
原因としては、もとから動脈硬化の傾向があり心臓の冠動脈にプラークができて血管が狭まったうえに、冠動脈が強く収縮(攣縮:れんしゅく)して閉塞してしまったと推定される事。
薬物による治療が可能と判断し、ステントと呼ばれる、血管を広げる管を挿入する事は行なわなかった事。
(処置前にはステントを入れる、と説明があった)
なお、薬は一生飲み続けなければならない。
退院まで2週間から4週間必要。
今後は様子を見ながら運動量や仕事量を決め、徐々に増やして日常に復帰していく。
・・・というものでした。
あと、ベッドから起き上がるような軽い動作でも、心臓への負担になってしまいかねないので、許可が出るまで絶対安静、とも言われました。
処置室から病室へも、ベッドに寝かされたまま移動。
廊下に掲げられた時計から、ERに搬送されてから2時間弱の時間が経過していた事を知りました。
病室は、HCU(準集中治療室)。隣がナースステーションになっていて、ベッドの枕元とナースステーションとの間にある窓から、こちらの様子を見る事ができるようになっています。
絶対安静なので、用便については、尿は導尿チューブを装着され、ベッド下のタンクに溜まるようになっていて、大の方についてはナースコールで呼ぶように、という事でした。
真っ裸に紙オムツに毛布だけ掛けられたのはそのままで、心電図、血中酸素濃度計のケーブル、点滴や酸素吸入のチューブに加え導尿チューブまで取り付けられ、身動き取ろうにも取れない状態。
なんとも惨めな気分になり、「ああ、最近は健康診断の結果も良かったのに」と嘆きにも似た思いも出てきましたが、やはり、若い頃の不摂生はその後にどれだけ健康的な生活を送ろうとしても、帳消しにするのは難しい。健康的な生活を送っていても、加齢による影響は避けられず、生活習慣の改善により、若い頃に受けた身体のダメージのさらなる進行を遅らせる事はできても、逆戻りにはできないのだなと悟りもしました。(たぶん重要な事なので強調しておく必要があると思います)
そんな事を考えている間に、外は暗くなり始め、そんな時、ツマがふたりの子供と義弟(ツマの弟)と一緒にお見舞いに来てくれました。
面会は短時間で、当面の衣類や身の回りのものだけ棚に置いて、みんな引き上げました。
(部屋を出てから、主治医から病状と今後の治療計画について説明を受けたそうです)
・・・結局、ムスメ(上の子)はベッドの足もとで陰になって見えず。ただ、ムスメの何か言う声が廊下を遠ざかるのだけが聞こえました。
その直後、夕食。
夕食から、通常の減塩食が認められたので、ちょうど昼食も無しできたため空腹だったので、助かりました。
ベッドを電動で少しずつ上体を起こしてもらい、ベッドの上を渡すように架けられたボードの上の夕食を食べました。
しかし・・・カテーテルを入れた右手首は固定されているし、左手の指には血中酸素濃度計のセンサーが付いているしで、食事には苦労しました。(本当は、言えば介助してもらえたらしいのですが、あえて・・・というかつまらない意地で言いませんでした)
幸いにも先割れスプーンが付いていたので、左手を使って食事をしましたが、空腹だったから以上に、白いご飯が美味しく思えました。
2017年10月30日
心筋梗塞日記(4) 真っ裸にされてカテーテル検査
救急車は市民病院に到着し、ストレッチャーのまま、ERへ。
病院備え付けのベッドに移されるや否や、間に上半身の衣類を剥がれて、心電図と心エコー。
それと並行して、問診。
肋骨、肩から肩甲骨、奥歯の根の痛みを言うと、医師は他のスタッフに
「心電図とエコーも含めて、心筋梗塞の教科書通りの典型的な症状だね」
と話し、ワタクシは「ひょっとしたら、心筋梗塞なんて恐ろしい病気ではないかもしれない」という甘い期待が残っていたのを、そこで捨てました。
治療の承諾書を目の前に出され、これからカテーテルを血管に挿入して手術する事など、治療の内容について説明を受けている間にも、下半身まで裸にされ、脚の付け根の剃毛(手首からカテーテルが入らなかった場合は脚の付け根から入れるため)、そして紙オムツをはかされました。
治療にあたり、できれば家族の承諾もほしいという事で、スマホを出してもらって、ツマに連絡。
医師がワタクシの代わりにその時点での病状、それから行なわれる治療について説明して口頭で承諾を得てから、ベッドのまま処置室へ移動。
しかしワタクシは、まさか自分がカテーテルによる治療を受ける事になるとは想像すらしていなかったから、テレビの医療系の番組で心臓カテーテルの手術が出てきても、「へぇ、こんな治療をするんだ」的な感想しか抱かず・・・いや、あえて言えば、手首なり脚の付け根なりの太い血管に穴を開けて、そこからカテーテルを心臓まで通して治療する時に、カテーテルが通っているあたりがモゾモゾしないんだろうか、その感触が気持ち悪くないのだろうか、程度には思っていました。
だから治療の説明を受けた時、まず最初に
「カテーテルが通っている事を、感じたりするんですか?」
という疑問をぶつけてしまいました。
(答えは、「ほとんど感じない」というもので、実際そうでしたが)
処置室では、またベッドから台の上に移され、そして身体が動かないように固定。
もし身体が動いてしまえば一緒に血管も動いてしまって、最悪の場合カテーテルが血管を傷つけたりなどの危険な事になる、と事前に注意を受けました。
処置室は気温が低く設定されており、真っ裸に紙オムツと毛布だけの状態のワタクシは寒くてならず、事前にトイレに行かせてもらえばよかったと思いましたが、しかし一刻を争う重病人がトイレに行きたいと言ったとして、果たして行かせてもらえたのかは疑問。
モニターを見やすくするためでしょうが、照明もほとんど落とされました。
手首に局所麻酔を打たれ、カテーテル挿入。
どうやら血管がそこまで細くなく、手首から心臓までカテーテルを通せそうなので、そうする・・・と説明あり。
脚の付け根からだと距離も長くなって治療の時間もそれだけ伸びると聞いていたので、少し安心。
まずは造影剤を注入して心臓周辺の血管をX線で見られるようにしたうえで、検査なり手術をするわけですが、「いきますよ~熱く感じるかもしれないけど、ガマンしてくださ~い」の声とともに造影剤が注入されると、確かに肩から胸の辺りにかけて、熱湯でも注入されたような熱さを感じました。
角度を変えて心臓を見るために、胸の辺りをX線の装置が上下左右に動き、医師たちの「やっぱり○番の血管ですね」「血栓はどれだろう」「××は止めておきますか」みたいな会話が続き、ただワタクシは治療の全行程のうちどの辺りまで進んでいるのか分からず、そもそも時間がどれだけ経ったかもわからず、いやそれ以前に処置は順調に進んでいるのかも分からず、とにかく不安。
始まってからかなりの時間が経過したような、いやあっという間だったような、そんな時に、
「これから○○負荷試験というのをやります。胸が痛くなったり苦しくなったりしたら、直ちに言ってください」
と言われ(後で調べてみましたが、「エルゴメトリン負荷試験」だったのか、「アセチルコリン負荷試験」だったのか、どっちだったのか不明)、薬剤を注入。
胸どころか全身、特に頭が内部から膨張するような苦しさを感じ、それを言おうとしたところ、医師が
「はい、ニトロやって!」
とスタッフに指示を出し、途端に苦しさがさぁーっと消滅。
医師から、「主な処置は終わりました。これから終わりに向かっていきます」と告げられ、それからまた長い時間が経ったような気がしましたが、ようやく終了となりました。
病院備え付けのベッドに移されるや否や、間に上半身の衣類を剥がれて、心電図と心エコー。
それと並行して、問診。
肋骨、肩から肩甲骨、奥歯の根の痛みを言うと、医師は他のスタッフに
「心電図とエコーも含めて、心筋梗塞の教科書通りの典型的な症状だね」
と話し、ワタクシは「ひょっとしたら、心筋梗塞なんて恐ろしい病気ではないかもしれない」という甘い期待が残っていたのを、そこで捨てました。
治療の承諾書を目の前に出され、これからカテーテルを血管に挿入して手術する事など、治療の内容について説明を受けている間にも、下半身まで裸にされ、脚の付け根の剃毛(手首からカテーテルが入らなかった場合は脚の付け根から入れるため)、そして紙オムツをはかされました。
治療にあたり、できれば家族の承諾もほしいという事で、スマホを出してもらって、ツマに連絡。
医師がワタクシの代わりにその時点での病状、それから行なわれる治療について説明して口頭で承諾を得てから、ベッドのまま処置室へ移動。
しかしワタクシは、まさか自分がカテーテルによる治療を受ける事になるとは想像すらしていなかったから、テレビの医療系の番組で心臓カテーテルの手術が出てきても、「へぇ、こんな治療をするんだ」的な感想しか抱かず・・・いや、あえて言えば、手首なり脚の付け根なりの太い血管に穴を開けて、そこからカテーテルを心臓まで通して治療する時に、カテーテルが通っているあたりがモゾモゾしないんだろうか、その感触が気持ち悪くないのだろうか、程度には思っていました。
だから治療の説明を受けた時、まず最初に
「カテーテルが通っている事を、感じたりするんですか?」
という疑問をぶつけてしまいました。
(答えは、「ほとんど感じない」というもので、実際そうでしたが)
処置室では、またベッドから台の上に移され、そして身体が動かないように固定。
もし身体が動いてしまえば一緒に血管も動いてしまって、最悪の場合カテーテルが血管を傷つけたりなどの危険な事になる、と事前に注意を受けました。
処置室は気温が低く設定されており、真っ裸に紙オムツと毛布だけの状態のワタクシは寒くてならず、事前にトイレに行かせてもらえばよかったと思いましたが、しかし一刻を争う重病人がトイレに行きたいと言ったとして、果たして行かせてもらえたのかは疑問。
モニターを見やすくするためでしょうが、照明もほとんど落とされました。
手首に局所麻酔を打たれ、カテーテル挿入。
どうやら血管がそこまで細くなく、手首から心臓までカテーテルを通せそうなので、そうする・・・と説明あり。
脚の付け根からだと距離も長くなって治療の時間もそれだけ伸びると聞いていたので、少し安心。
まずは造影剤を注入して心臓周辺の血管をX線で見られるようにしたうえで、検査なり手術をするわけですが、「いきますよ~熱く感じるかもしれないけど、ガマンしてくださ~い」の声とともに造影剤が注入されると、確かに肩から胸の辺りにかけて、熱湯でも注入されたような熱さを感じました。
角度を変えて心臓を見るために、胸の辺りをX線の装置が上下左右に動き、医師たちの「やっぱり○番の血管ですね」「血栓はどれだろう」「××は止めておきますか」みたいな会話が続き、ただワタクシは治療の全行程のうちどの辺りまで進んでいるのか分からず、そもそも時間がどれだけ経ったかもわからず、いやそれ以前に処置は順調に進んでいるのかも分からず、とにかく不安。
始まってからかなりの時間が経過したような、いやあっという間だったような、そんな時に、
「これから○○負荷試験というのをやります。胸が痛くなったり苦しくなったりしたら、直ちに言ってください」
と言われ(後で調べてみましたが、「エルゴメトリン負荷試験」だったのか、「アセチルコリン負荷試験」だったのか、どっちだったのか不明)、薬剤を注入。
胸どころか全身、特に頭が内部から膨張するような苦しさを感じ、それを言おうとしたところ、医師が
「はい、ニトロやって!」
とスタッフに指示を出し、途端に苦しさがさぁーっと消滅。
医師から、「主な処置は終わりました。これから終わりに向かっていきます」と告げられ、それからまた長い時間が経ったような気がしましたが、ようやく終了となりました。
2017年10月29日
心筋梗塞日記(3) 救急搬送
クリニックで受付を済ませ、問診票に記入。
正直、問診票を書くのすら面倒くさいほどダレ切っていましたが。
かなり人気のあるクリニックで待合室はいっぱいでしたが、問診票の内容から急を要すると判断されたのか、それほど待つほどもなく検査。
内科の他に循環器科もあるクリニックだったのが幸いしたのかもしれません。
まず、心電図。
担当の検査技師さんが「?」と首を傾げるようなふうで、なぁ~んかイヤな予感・・・不安になりました。
それから、心臓のエコー診断。
こちらも技師さんがしつこく画像を何度も繰り返し見て、看護師さんに「ちょっとドクターを呼んでください」と指示。
ますます不安。
医師が画像を見て、血液検査を指示。
血液を取られ、診断キットにその血液を垂らし、それから検査室の前の長椅子でとりあえず待つように言われ、その間、スマホで検索。
検索ワードは忘れてしまいましたが、心筋梗塞も血液検査で5分で分かるという記事が最初に出てきて、不安はさらに高まります。
そしてようやく診察室へ。
医師はワタクシを見つめ数瞬の沈黙の後、
「ちょっと・・・心筋梗塞を疑わせるデータが出たので、救急車で処置や手術のできる病院に行ってもらいます」
という意味の事を私に告げました。
行き先は、S市内の市民病院が最有力候補との事。
ワタクシは、自宅のある鹿児島市の病院にできないかとお願いしましたが、そこまで搬送される間により大きな発作が起こるリスクを考えると、賛成しかねるとの事。
直ちに酸素吸入の措置が取られ(もし大きな発作が起こっても、心臓や脳へのダメージを最小限に留めるため)、点滴も開始され、ベッドの上で絶対安静。
「ご家族は?」と聞かれたので、許可を得てLINEでツマに連絡を取ろうとしたら、気付かないうちにメッセージが入っているのに気付きました。
内容としては、下の子が熱を出したと保育園から連絡があったので、仕事を早退してお迎えに行きます、との事。
ワタクシは「うわぁ・・・」と思いましたが、取り込み中にさらに拍車をかけてしまうのを承知でLINE通話のボタンをポチっと。
最初ツマは、下の子の熱発の事でワタクシが連絡を取ってきたと思ったようです。
そこへ、(ゴメンナサイ)と、ワタクシが心臓のトラブルで救急搬送される事になったのを伝えると、動揺したのか、泣くような声になりましたが、それを「だいじょうぶだから」となだめ、また改めて連絡する事を約束しました。
職場にもLINEでとりあえずの状況を伝え、そのうちに救急車が到着。
ベッドからストレッチャーに移され、待合室を通り抜けて、救急車へ。
そういえば熊本で学生をしていた頃にも、救急車で搬送された事を思い出しました。
熊本市内にある江津湖という湖へ、後輩の研究に関連する現地調査に同行した時に事故に遭い、腰を強打して動けなくなり、搬送されました。
江津湖は湖畔に動植物園や公園もある市民の憩いの場であり、観光スポットでもあり、ちょうど熊本国体の最中だった事もあって普段より多目の人出があり、結構な数の野次馬に囲まれながら救急車に乗せられました。
その時は生命の危険は感じませんでしたが、今回は生命の危険がモロに迫っていました。
しかし、死に対する本能的な恐怖は少しも感じませんでした。
まるで他人事のように、「人って死ぬ時はこんなふうに死んじゃうのかな」と、実感なく思っていました。
それだけ身体的にも精神的にも参っていたのかもしれません。
ただ、ツマや4歳と1歳になる子供たちの事が気がかりでなりませんでした。
正直、問診票を書くのすら面倒くさいほどダレ切っていましたが。
かなり人気のあるクリニックで待合室はいっぱいでしたが、問診票の内容から急を要すると判断されたのか、それほど待つほどもなく検査。
内科の他に循環器科もあるクリニックだったのが幸いしたのかもしれません。
まず、心電図。
担当の検査技師さんが「?」と首を傾げるようなふうで、なぁ~んかイヤな予感・・・不安になりました。
それから、心臓のエコー診断。
こちらも技師さんがしつこく画像を何度も繰り返し見て、看護師さんに「ちょっとドクターを呼んでください」と指示。
ますます不安。
医師が画像を見て、血液検査を指示。
血液を取られ、診断キットにその血液を垂らし、それから検査室の前の長椅子でとりあえず待つように言われ、その間、スマホで検索。
検索ワードは忘れてしまいましたが、心筋梗塞も血液検査で5分で分かるという記事が最初に出てきて、不安はさらに高まります。
そしてようやく診察室へ。
医師はワタクシを見つめ数瞬の沈黙の後、
「ちょっと・・・心筋梗塞を疑わせるデータが出たので、救急車で処置や手術のできる病院に行ってもらいます」
という意味の事を私に告げました。
行き先は、S市内の市民病院が最有力候補との事。
ワタクシは、自宅のある鹿児島市の病院にできないかとお願いしましたが、そこまで搬送される間により大きな発作が起こるリスクを考えると、賛成しかねるとの事。
直ちに酸素吸入の措置が取られ(もし大きな発作が起こっても、心臓や脳へのダメージを最小限に留めるため)、点滴も開始され、ベッドの上で絶対安静。
「ご家族は?」と聞かれたので、許可を得てLINEでツマに連絡を取ろうとしたら、気付かないうちにメッセージが入っているのに気付きました。
内容としては、下の子が熱を出したと保育園から連絡があったので、仕事を早退してお迎えに行きます、との事。
ワタクシは「うわぁ・・・」と思いましたが、取り込み中にさらに拍車をかけてしまうのを承知でLINE通話のボタンをポチっと。
最初ツマは、下の子の熱発の事でワタクシが連絡を取ってきたと思ったようです。
そこへ、(ゴメンナサイ)と、ワタクシが心臓のトラブルで救急搬送される事になったのを伝えると、動揺したのか、泣くような声になりましたが、それを「だいじょうぶだから」となだめ、また改めて連絡する事を約束しました。
職場にもLINEでとりあえずの状況を伝え、そのうちに救急車が到着。
ベッドからストレッチャーに移され、待合室を通り抜けて、救急車へ。
そういえば熊本で学生をしていた頃にも、救急車で搬送された事を思い出しました。
熊本市内にある江津湖という湖へ、後輩の研究に関連する現地調査に同行した時に事故に遭い、腰を強打して動けなくなり、搬送されました。
江津湖は湖畔に動植物園や公園もある市民の憩いの場であり、観光スポットでもあり、ちょうど熊本国体の最中だった事もあって普段より多目の人出があり、結構な数の野次馬に囲まれながら救急車に乗せられました。
その時は生命の危険は感じませんでしたが、今回は生命の危険がモロに迫っていました。
しかし、死に対する本能的な恐怖は少しも感じませんでした。
まるで他人事のように、「人って死ぬ時はこんなふうに死んじゃうのかな」と、実感なく思っていました。
それだけ身体的にも精神的にも参っていたのかもしれません。
ただ、ツマや4歳と1歳になる子供たちの事が気がかりでなりませんでした。
タグ :心筋梗塞
2017年10月28日
心筋梗塞日記(2) ついに職場でブッ倒れる ※ただし気合で自力走行可能
ついに迎えた10月16日、全身のしんどさは増していました。
とにかく力が出ない。
少しでも身体を動かすと、息が切れるような感じがする。
それでも、普段より5分ほども早い5時40分頃に家を出て、駅に向かいました。
しかし、歩くにも足に力が入らず、時間ギリギリで始発電車に間に合うような始末。
電車の中では終点に着くまでの50分ほど、熟睡と言っていいほど深い眠りにありました。
駅から職場までの自転車がまた、しんどかった。
普段より時間をかけて、まだ誰もいない職場に到着。
なんでいつもそんな時間に出勤するのかというと、ワタクシは早朝の時間帯が、いちばん仕事が捗るのです。
だってそうでしょう。誰も話しかけてこないし、電話も鳴らないし、なにより頭がスッキリしている。
けれどもその日は、しんどくて仕事に身が入らない。
仕事のペースは、普段の半分以下。しかもそうしているうちに、また胸が痛くなってきて、しかも今度は胸全体まで痛みが広がって、しかも背中の肩甲骨の周りや首筋、果ては奥歯の根まで痛みが広がってきて、だんだんと仕事どころではなくなってきました。
今日は、早退きしちゃおうかな~・・・と思っているうちに、三々五々同僚たちが出勤してきて、やがて始業時間。
週明けということもあり、電話がひっきりなしに鳴りだして、その応対に追われ、少し手が空くと、机の上で腕を組んで頭を下げたまま身動きできない状態。
周りからは居眠りしてると思われたかもしれません。
そして、また電話を取って、用が済んで受話器を置いたその時、胸などの痛みが最大限になり、同時にまた息ができない感じに襲われ、「こらいかん!」と思わず立ち上がろうとしたけど意識が飛んで、椅子にドスンと尻もちをつくように座り直し。
すぐに意識が戻り、また立ち上がり、気合をふりしぼって営業所長のところにヨタヨタと歩いていって、
「すみません、体調が悪いんで、ちょっと病院行ってきます」
とだけ伝えて、自転車に乗って職場近くのクリニックへ。
もう半分意識が飛びそうになるのを感じながら重いペダルを踏んで、ようやくクリニックに到着。
その時はまだ、過労かストレス性の何かではないかと自分では思っていて、適当な薬を処方されて終わりになるんだろうな~、もう今日はそのまま家に帰って、ゆっくり休もうかな~・・・程度にしか思っていませんでしたが、それからの急展開は私自身が想定外の事でした。
とにかく力が出ない。
少しでも身体を動かすと、息が切れるような感じがする。
それでも、普段より5分ほども早い5時40分頃に家を出て、駅に向かいました。
しかし、歩くにも足に力が入らず、時間ギリギリで始発電車に間に合うような始末。
電車の中では終点に着くまでの50分ほど、熟睡と言っていいほど深い眠りにありました。
駅から職場までの自転車がまた、しんどかった。
普段より時間をかけて、まだ誰もいない職場に到着。
なんでいつもそんな時間に出勤するのかというと、ワタクシは早朝の時間帯が、いちばん仕事が捗るのです。
だってそうでしょう。誰も話しかけてこないし、電話も鳴らないし、なにより頭がスッキリしている。
けれどもその日は、しんどくて仕事に身が入らない。
仕事のペースは、普段の半分以下。しかもそうしているうちに、また胸が痛くなってきて、しかも今度は胸全体まで痛みが広がって、しかも背中の肩甲骨の周りや首筋、果ては奥歯の根まで痛みが広がってきて、だんだんと仕事どころではなくなってきました。
今日は、早退きしちゃおうかな~・・・と思っているうちに、三々五々同僚たちが出勤してきて、やがて始業時間。
週明けということもあり、電話がひっきりなしに鳴りだして、その応対に追われ、少し手が空くと、机の上で腕を組んで頭を下げたまま身動きできない状態。
周りからは居眠りしてると思われたかもしれません。
そして、また電話を取って、用が済んで受話器を置いたその時、胸などの痛みが最大限になり、同時にまた息ができない感じに襲われ、「こらいかん!」と思わず立ち上がろうとしたけど意識が飛んで、椅子にドスンと尻もちをつくように座り直し。
すぐに意識が戻り、また立ち上がり、気合をふりしぼって営業所長のところにヨタヨタと歩いていって、
「すみません、体調が悪いんで、ちょっと病院行ってきます」
とだけ伝えて、自転車に乗って職場近くのクリニックへ。
もう半分意識が飛びそうになるのを感じながら重いペダルを踏んで、ようやくクリニックに到着。
その時はまだ、過労かストレス性の何かではないかと自分では思っていて、適当な薬を処方されて終わりになるんだろうな~、もう今日はそのまま家に帰って、ゆっくり休もうかな~・・・程度にしか思っていませんでしたが、それからの急展開は私自身が想定外の事でした。
2017年10月28日
心筋梗塞日記(1) 天国の階段の上(?)から亡父に突き落とされた
ワタクシの通勤時間は片道1時間半弱。
うち30分は、自宅から駅までの徒歩と、(間にJRの電車に乗っている時間を挟んで)駅から職場までの自転車の時間です。
しかしそれくらいの通勤時間をかけている人は全国にゴマンといるでしょう。
しかも、運動と自転車を1日に1時間くらいしている事になるので、運動も兼ねていると思っています。
仕事は・・・ここ3か月ほどメチャクチャ忙しかったです。
それでも、倒れるまでの半月ほどを除いては、土日祝日は普通に休めました。
ただ、最後の半月は毎日4~5時間の残業に加えて土曜も日曜もないような忙しさが続き、ドリンク剤やカフェイン錠剤で元気を無理やり引き出して仕事するような状態でした。
10月に入ってからは、とにかくしんどかったです。
どんなふうにしんどかったかというと、毎日の疲れがたまって、それが際限なく積み重なっていくようなしんどさ。
それでも10月13日の金曜日には仕事が大きな山を越え、10月14日、15日には久々の連休が取れました。
15日には、以前の職場の取引先で、大変にお世話になった粹家創房の「マザルバカフェ」が6周年ということで、家族みんなで遊びに行きました。
しかし前の日も休んだはずなのに、疲れが全然取れず、しんどいまま。
1歳になったばかりの下の子を抱っこひもで抱っこし、屋台を冷やかしたり、ラーメンで有名な五郎屋の屋台で売っていた唐揚げや五目御飯(そのどちらも感動するくらい美味しかったのは、あえて特筆すべき)に舌鼓を打ったりしていたその時、胸に異変を感じました。
肋骨が痛いというか、なんかモヤモヤしたような、変な気持ち。
しかし、久々に抱っこひもで抱っこしたから、筋肉痛のようなものになったのかとスルーしました。
イベントを楽しんでからタイヨーで買い物して、家に帰る頃には胸の痛みは治まっていましたが、身体全体のしんどさは増していました。
そしてその夜、変な夢を見ました。
夢の中で、ワタクシは一人、唐湊にある実家の墓に墓参りに行っていました。
たぶん線香を手にしていたような気がしますが、息を切らせながら階段を上っていくと(ただ、実際には数段しかないはずの階段が夢の中では何十段もあった)、その先に、20年以上も前に亡くなった父が仁王立ちしていました。
そして私を見るなり、
「ないごて こけくっか!」
と一喝し、ワタクシを突き飛ばしました。
ワタクシは、空中を真っ逆さまに落ちていきました。
落ちながら、息ができないのを感じ、もがき苦しみながら、気が付けば寝室の布団の上。
それでも息が苦しくて、そばで寝ているはずのツマの名前を呼ぼうとするけど、声も出ない。
バタバタしているうちにツマはワタクシの異変に気が付いたようですが、声をかけたらワタクシは「だいじょうぶ」と答えたらしいです。
実際、ワタクシはツマに声を掛けられた時には我に返っていて、「だいじょうぶ」と答えた記憶があるのですが、そのまま眠ってしまいました。
ツマも、ワタクシが悪い夢でも見たんだ・・・くらいの気持ちでいたそうですが、まぁ状況からすると無理もないでしょう。
しかし、後から思えば、それが最初の大きい発作だったのかもしれません。
うち30分は、自宅から駅までの徒歩と、(間にJRの電車に乗っている時間を挟んで)駅から職場までの自転車の時間です。
しかしそれくらいの通勤時間をかけている人は全国にゴマンといるでしょう。
しかも、運動と自転車を1日に1時間くらいしている事になるので、運動も兼ねていると思っています。
仕事は・・・ここ3か月ほどメチャクチャ忙しかったです。
それでも、倒れるまでの半月ほどを除いては、土日祝日は普通に休めました。
ただ、最後の半月は毎日4~5時間の残業に加えて土曜も日曜もないような忙しさが続き、ドリンク剤やカフェイン錠剤で元気を無理やり引き出して仕事するような状態でした。
10月に入ってからは、とにかくしんどかったです。
どんなふうにしんどかったかというと、毎日の疲れがたまって、それが際限なく積み重なっていくようなしんどさ。
それでも10月13日の金曜日には仕事が大きな山を越え、10月14日、15日には久々の連休が取れました。
15日には、以前の職場の取引先で、大変にお世話になった粹家創房の「マザルバカフェ」が6周年ということで、家族みんなで遊びに行きました。
しかし前の日も休んだはずなのに、疲れが全然取れず、しんどいまま。
1歳になったばかりの下の子を抱っこひもで抱っこし、屋台を冷やかしたり、ラーメンで有名な五郎屋の屋台で売っていた唐揚げや五目御飯(そのどちらも感動するくらい美味しかったのは、あえて特筆すべき)に舌鼓を打ったりしていたその時、胸に異変を感じました。
肋骨が痛いというか、なんかモヤモヤしたような、変な気持ち。
しかし、久々に抱っこひもで抱っこしたから、筋肉痛のようなものになったのかとスルーしました。
イベントを楽しんでからタイヨーで買い物して、家に帰る頃には胸の痛みは治まっていましたが、身体全体のしんどさは増していました。
そしてその夜、変な夢を見ました。
夢の中で、ワタクシは一人、唐湊にある実家の墓に墓参りに行っていました。
たぶん線香を手にしていたような気がしますが、息を切らせながら階段を上っていくと(ただ、実際には数段しかないはずの階段が夢の中では何十段もあった)、その先に、20年以上も前に亡くなった父が仁王立ちしていました。
そして私を見るなり、
「ないごて こけくっか!」
と一喝し、ワタクシを突き飛ばしました。
ワタクシは、空中を真っ逆さまに落ちていきました。
落ちながら、息ができないのを感じ、もがき苦しみながら、気が付けば寝室の布団の上。
それでも息が苦しくて、そばで寝ているはずのツマの名前を呼ぼうとするけど、声も出ない。
バタバタしているうちにツマはワタクシの異変に気が付いたようですが、声をかけたらワタクシは「だいじょうぶ」と答えたらしいです。
実際、ワタクシはツマに声を掛けられた時には我に返っていて、「だいじょうぶ」と答えた記憶があるのですが、そのまま眠ってしまいました。
ツマも、ワタクシが悪い夢でも見たんだ・・・くらいの気持ちでいたそうですが、まぁ状況からすると無理もないでしょう。
しかし、後から思えば、それが最初の大きい発作だったのかもしれません。
2017年10月28日
心筋梗塞日記(0) 健康には自信があるはず・・・だった
ワタクシ、今から20年ほど前・・・二十歳を過ぎた頃には、体重が100kgを超えていました。
超えていたのは、ほんの一瞬だったと思います。
その日、久々に銭湯に行き、体重計に乗ったら、体重が103kgを示したのです。
いやぁ、ショックでした。
ただ、分からないでもなかったです。
体育会系の部活(ワンダーフォーゲル部といって、登山を中心にアウトドア活動をする部活)を引退した後は、以前からの暴飲暴食に加え、運動不足の毎日。
だって、たとえば大学そばの定食屋に行けば、どんぶり飯に脂たっぷりの山盛り生姜焼きの定食が480円くらいで食べられて、それだけでは物足りないから焼酎やビールを足すような食生活。
他にも、おやつにはポテチのビッグバッグを一度に食べてしまうとか。
そんな自堕落な生活を送っていましたが、さすがに100kg超には恐ろしくなりました。
・・・このままだったら、10年で死んでしまう!
そんな危機感から、食事を少しだけ減らし、意識して運動をするという、長期計画的ダイエットを開始。
20年かけて、体重は70kgを切るところまで持ってきました。
運動の積み重ねの結果、フルマラソンを完走できるくらいになり、昨年(2016年)のいぶすき菜の花マラソンではネットタイム(号砲が鳴ってからゴールするまでの公式タイム「グロスタイム」に対して、純粋にスタート地点を通過してからゴール地点に到達するまでの非公式タイム)とはいえ4時間台の自己ベストを記録するくらいになりました。
最近の血液検査の結果も、肝機能を示す数値だけでなく、尿酸値やコレステロール値もほぼ標準値の範囲内。
30歳頃に高血圧で入院した事があって、その時は20歳頃の不摂生が遅れてたたってきた・・・と思っていたのですが、もうこれ以上はないだろう、と安心というか、油断していました。
そんななか、まさかまさかの急性心筋梗塞で倒れるという事態に遭遇しました。
若い頃の不摂生とやら、恐るべし!
ここでは、そんな過去のツケを今頃払わされるハメになった体験談を書いていきます。
超えていたのは、ほんの一瞬だったと思います。
その日、久々に銭湯に行き、体重計に乗ったら、体重が103kgを示したのです。
いやぁ、ショックでした。
ただ、分からないでもなかったです。
体育会系の部活(ワンダーフォーゲル部といって、登山を中心にアウトドア活動をする部活)を引退した後は、以前からの暴飲暴食に加え、運動不足の毎日。
だって、たとえば大学そばの定食屋に行けば、どんぶり飯に脂たっぷりの山盛り生姜焼きの定食が480円くらいで食べられて、それだけでは物足りないから焼酎やビールを足すような食生活。
他にも、おやつにはポテチのビッグバッグを一度に食べてしまうとか。
そんな自堕落な生活を送っていましたが、さすがに100kg超には恐ろしくなりました。
・・・このままだったら、10年で死んでしまう!
そんな危機感から、食事を少しだけ減らし、意識して運動をするという、長期計画的ダイエットを開始。
20年かけて、体重は70kgを切るところまで持ってきました。
運動の積み重ねの結果、フルマラソンを完走できるくらいになり、昨年(2016年)のいぶすき菜の花マラソンではネットタイム(号砲が鳴ってからゴールするまでの公式タイム「グロスタイム」に対して、純粋にスタート地点を通過してからゴール地点に到達するまでの非公式タイム)とはいえ4時間台の自己ベストを記録するくらいになりました。
最近の血液検査の結果も、肝機能を示す数値だけでなく、尿酸値やコレステロール値もほぼ標準値の範囲内。
30歳頃に高血圧で入院した事があって、その時は20歳頃の不摂生が遅れてたたってきた・・・と思っていたのですが、もうこれ以上はないだろう、と安心というか、油断していました。
そんななか、まさかまさかの急性心筋梗塞で倒れるという事態に遭遇しました。
若い頃の不摂生とやら、恐るべし!
ここでは、そんな過去のツケを今頃払わされるハメになった体験談を書いていきます。